2025年3月10日
意志力の限界は思い込みか:自我消耗の新たな発見
私たちは日々、様々な場面で意思の力を使っています。職場での業務に集中したり、感情をコントロールしたり、誘惑に打ち勝ったりと、自分の行動を制御する機会は数多くあります。しかし、こうした自己統制を続けていると、次第に心が疲れを感じ始め、その後の行動に影響が出てくることがあります。「自我消耗」と呼ばれる現象です。
自我消耗は、「意思の力を使うと、その力が一時的に減少する」と考えられていました。私たちの意思の力には限りがあり、使い過ぎるとバッテリーのように消耗してしまうという説明です。ところが、近年の研究では、実はそれほど単純な仕組みではないことも分かってきました。
自我消耗の正体は何なのか。本コラムでは、研究成果をもとに、この謎に迫っていきます。自己統制の力は本当に物理的に減少するのでしょうか。それとも別の要因が隠れているのでしょうか。自我消耗をめぐる発見から、その本質に迫ってみましょう。
自我消耗は自己効力感が関係する
自我消耗の状態になると、人は自分の能力に自信が持てなくなることが明らかになっています。この現象を理解するために、一連の実験が行われました[1]。実験では、認知的な作業で意思の力を使った後、人々の自己効力感がどのように変化するかが調べられました。
実験対象者を二つのグループに分けました。一方のグループには、文章を読む際に特定の文字を使わないように書き写すという課題が与えられました。これは意識的な制御を必要とする作業で、自我を消耗させる操作として用いられました。もう一方のグループには、そのような制限のない通常の書き写し課題が与えられました。
この課題の後、健康的な食事に関する自己効力感を測定しました。具体的には、健康的な食生活を維持できる自信の程度を評価してもらいました。その結果、自我を消耗させる作業を行ったグループは、そうでないグループと比べて、健康的な食事を続けられる自信が低下していました。この結果は、自我消耗が自己効力感に影響を及ぼすことを示しています。
実験では、感情状態についても調査が行われました。しかし、ポジティブな感情やネガティブな感情には、グループ間で大きな違いは見られませんでした。これは、自己効力感の低下が気分の変化によるものではないことを示唆しています。
別の実験では、計算課題が用いられました。この実験でも、最初に自己統制を必要とする課題を行ったグループと、そうでないグループに分けられました。その後、参加者には計算問題に取り組んでもらい、課題に対する自信と実際のパフォーマンスが測定されました。
最初の課題で意思の力を使ったグループは、計算課題に対する自己効力感が低下し、実際の成績も下がることが分かりました。統計分析によって、自己効力感の低下が自我消耗状態とパフォーマンス低下の間を媒介していることが確認されました。自我消耗による自己効力感の低下が、次の課題での成績低下を引き起こしているという関係が示されたのです。
三つ目の実験では、オンラインで参加者を募り、同様の検証が行われました。この実験では、最初に自己統制を必要とする文字制限のある記憶課題を行い、その後で英語のアナグラム課題に取り組んでもらいました。ここでも、自我消耗状態になった参加者は自己効力感が低下し、アナグラム課題での持続時間とパフォーマンスが低下することが確認されました。
これらの一連の実験から、自我消耗による自己統制の低下は、疲労や能力の一時的な低下ではないことが見えてきました。「自分にはもうできない」という自己効力感の低下が重要な役割を果たしているのです。自己効力感の低下は、次の課題への取り組み方や持続力に影響を与え、結果として実際のパフォーマンスを下げてしまうというメカニズムが明らかになりました。
意志力が減ると思い込むことで起こる
自我消耗の研究で興味深い発見の一つは、意志力が実際に減少するわけではなく、意志力が減ると思い込むことで生じる可能性が高いということです。この点を検証するため、複数の実験が実施されました[2]。
第一の実験では、参加者を無作為に二つのグループに分け、認知的に負荷のかかる課題を行ってもらいました。その後、ストループ課題と呼ばれる、文字の色を答える課題に取り組んでもらいます。この課題では、文字の意味と色が異なる場合(例えば、「赤」という文字が青色で書かれている)に、文字の色を正確に答えなければなりません。
実験の結果、「意志力は有限である」と強く信じている参加者は、意志力を使う課題を行った後にストループ課題での誤答が増加しました。一方、「意志力はそう簡単には減らない」と考えている参加者は、同じように意志力を使う課題を行っても、その後の誤答はほとんど増えませんでした。
この結果を詳しく検証するため、第二の実験では意志力についての考え方を実験的に操作することを試みました。参加者を二つのグループに分け、一方のグループには「意志力は有限で使えば使うほど減っていく」という内容の説明文を読んでもらいました。もう一方のグループには「意志力は無限に近く、使えば使うほど強くなる可能性がある」という内容の説明文を読んでもらいました。
その後、自己統制を必要とする課題を行ってもらったところ、意志力が有限だと説明された参加者は、課題後のパフォーマンスが顕著に低下しました。これに対し、意志力が無限に近いと説明された参加者は、パフォーマンスの低下が見られず、一部の参加者では向上する傾向さえ見られました。
第三の実験では、より実践的な検証が行われました。オンラインで参加者を募り、意志力に関する信念を事前に測定しました。その上で、特定の文字を使わずに出来事を記憶するという自己統制課題を行い、その後で英単語のアナグラム課題に取り組んでもらいました。
意志力は有限だと考える参加者だけが、自己統制課題の後にアナグラム課題のパフォーマンスが低下し、課題への持続時間も短くなりました。一方、意志力は無限に近いと考える参加者は、パフォーマンスをほぼ維持することができました。
さらに、実際の学生生活における長期的な影響も調査されました。研究者たちは、学期の始めから期末試験期間まで学生たちを追跡し、意志力に関する信念が自己統制にどのような影響を与えるかを観察しました。その結果、「意志力は有限だ」と考える学生は、試験期間など特にストレスが高まる時期に、自己統制が著しく低下することが分かりました。
具体的には、これらの学生は高脂肪・高糖食品の摂取が増え、課題の先延ばしが多くなり、学業目標の達成度も低下する傾向が見られました。反対に、意志力はそう簡単には減らないと考える学生は、同じようなストレス下でも自己統制を比較的うまく維持できていました。
低ストレス時には、意志力に関する信念の違いはそれほど顕著な差を生みませんでした。しかし、ストレスが高まると、両者の違いが明確に現れてきたのです。このことは、意志力に関する信念が、困難な状況での自己統制に影響を及ぼすことを示しています。
自我消耗が起きても変わらないもの
自我消耗の研究を進める中で、意外な事実が明らかになってきました。自我消耗が起きても変化しない認知や評価が存在するということです。この発見は、ストレスの多い場面における人々の認知的評価に関する実験から得られました[3]。
研究者たちは、公の場でスピーチを行うという課題を用いて実験を行いました。参加者を二つのグループに分け、一方のグループには自己統制を必要とする課題を行ってもらい、自我消耗状態を作り出しました。その後、両グループにスピーチ課題が与えられ、この課題に対する認知的評価を測定しました。
実験では、スピーチ課題をどの程度「挑戦」あるいは「脅威」と感じるかを評価してもらいました。結果として、自我消耗状態にある参加者とそうでない参加者の間で、スピーチ課題に対する評価に顕著な違いは見られませんでした。どちらのグループも、スピーチを「脅威」と捉える傾向があり、自己評価も同様に低めでした。
スピーチの出来栄えに対する主観的なパフォーマンス評価においても、両グループ間で大きな違いは見られませんでした。自我消耗状態の有無に関わらず、参加者たちは「あまりうまくできないかもしれない」と評価する傾向にありました。
この結果の背景には、スピーチ課題そのものが持つ強いストレス性があると考えられます。人前で話をすることは、多くの人にとって心理的負担が大きく、それ自体が強い不安や緊張を引き起こします。そのため、自我消耗による追加的な影響が現れにくかったという解釈が可能です。
個人差の影響も検討されました。実験では、参加者の「枯渇感受性」(自己統制リソースが消耗しやすいと感じる傾向)や「意志力についての信念」も測定されました。その結果、自分の意志力がすぐに枯渇すると考える傾向が強い人は、スピーチをより脅威だと捉え、自己評価も低くなりがちでした。
一方で、自我消耗操作を受けた参加者は確かに疲労感を報告しましたが、その疲労感がスピーチ課題への評価や取り組み方に直接的な影響を与えることはありませんでした。ストレスフルな状況下での認知的評価が、単純な疲労感とは異なるメカニズムで形成される可能性を表しています。
自己利益を求める動機づけが高まる状態
自我消耗の状態になっても、人は必ずしも自己統制の力を失うわけではありません。自己利益を追求する動機づけが強まることが、一連の実験によって確認されています[4]。金銭的な報酬が得られる状況では、自我消耗状態にある人は不正行為を行う可能性が高まります。
第一の実験では、参加者を二つのグループに分け、一方には自己統制を必要とする課題を課して自我消耗状態を作り出しました。その後、両グループに異なる種類の不正行為の機会を与えました。一つは物質的な報酬(お金)が得られる推測タスク、もう一つは手間を省ける計算タスクです。
推測タスクでは、正解すると報酬が得られる設定で、参加者が裏で計算するなどの不正行為をすれば正解率を上げることができました。一方、計算タスクでは、報酬は少ないものの、手間を省くために不正解答をすることが可能でした。
実験の結果、自我消耗状態の参加者は、金銭的報酬が得られる推測タスクにおいて不正行為を行う確率が高くなりました。しかし、手間を省ける計算タスクでは、自我消耗状態の参加者でも不正行為はそれほど増加しませんでした。
反応時間の分析からは、推測タスクにおいて、自我消耗状態の参加者が実際に計算を行っていた可能性が示唆されました。金銭的な報酬を得るためなら、疲れた状態でも労力をかけて不正を行う意欲があったということです。
第二の実験では、より標準的な手法を用いて検証が行われました。参加者は再び自我消耗群と非消耗群に分けられ、その後でサイコロの目を報告する課題が与えられました。この課題では、特定の目が出たと報告すれば報酬がもらえる仕組みになっていました。
実験の結果、自我消耗状態の参加者は、お金が得られる条件で有利な目を報告する確率が高くなりました。一方、便利さだけが得られる条件では、このような不正報告の増加は見られませんでした。正確性の分析からも、報酬の種類によって不正行為の発生パターンが異なることが確認されました。
これらの実験結果から、自我消耗は「自己統制ができなくなる」状態というよりは、「自己利益を追求する動機づけが高まる」状態であることが示唆されます。金銭的な利益が見込める場合、自我消耗状態の人は多少の労力をかけてでも不正行為を行う傾向が強まるのです。
この発見は、自我消耗に関する従来の理解を変える可能性を持っています。自己統制の能力そのものが低下するのではなく、自己利益を優先する方向へと動機づけが変化することで、結果として自己統制が働きにくくなるというメカニズムが見えてきました。
自我消耗の新たな理解と応用
自我消耗の研究から見えてきたのは、この現象が私たちの心理的な認識と結びついているということです。意思の力が実際に枯渇するというより、私たちの自信や意欲、動機づけの変化が重要な役割を果たしているのです。
職場のマネジメントにおいて、この知見は有用でしょう。従業員の自己効力感を維持・向上させる取り組みは、自我消耗の影響を軽減する可能性があります。意志力に関する柔軟な考え方を育むことで、ストレスフルな状況でもパフォーマンスを維持できる可能性が高まります。
報酬設計においても注意が必要です。自我消耗状態では金銭的な利益を追求する動機づけが強まることから、適切なインセンティブ設計が望まれます。これらの知見を活かすことで、より良い職場環境を作り出すことができるでしょう。
脚注
[1] Chow, J. T., Hui, C. M., and Lau, S. (2015). A depleted mind feels inefficacious: Ego-depletion reduces self-efficacy to exert further self-control. European Journal of Social Psychology, 45(6), 754-768.
[2] Job, V., Dweck, C. S., and Walton, G. M. (2010). Ego depletion – Is it all in your head? Implicit theories about willpower affect self-regulation. Psychological Science, 21(11), 1686-1693.
[3] O’Brien, J., Fryer, S., Parker, J., and Moore, L. (2021). The effect of ego depletion on challenge and threat evaluations during a potentially stressful public speaking task. Anxiety, Stress, & Coping, 34(3), 266-278.
[4] Wu, S., Peng, M., Mei, H., and Shang, X. (2019). Unwilling but not unable to control: Ego depletion increases effortful dishonesty with material rewards. Scandinavian Journal of Psychology, 60(3), 189-194.
執筆者
伊達 洋駆 株式会社ビジネスリサーチラボ 代表取締役
神戸大学大学院経営学研究科 博士前期課程修了。修士(経営学)。2009年にLLPビジネスリサーチラボ、2011年に株式会社ビジネスリサーチラボを創業。以降、組織・人事領域を中心に、民間企業を対象にした調査・コンサルティング事業を展開。研究知と実践知の両方を活用した「アカデミックリサーチ」をコンセプトに、組織サーベイや人事データ分析のサービスを提供している。著書に『60分でわかる!心理的安全性 超入門』(技術評論社)や『現場でよくある課題への処方箋 人と組織の行動科学』(すばる舎)、『越境学習入門 組織を強くする「冒険人材」の育て方』(共著;日本能率協会マネジメントセンター)などがある。2022年に「日本の人事部 HRアワード2022」書籍部門 最優秀賞を受賞。東京大学大学院情報学環 特任研究員を兼務。