2025年2月27日
思いやりが疲れを生む?:職場における自我消耗
職場で様々な課題に直面していませんか。顧客対応でイライラを抑え、期限に追われ、同僚との関係に気を遣い、上司からの指示に従う。そんな日常の中で、知らず知らずのうちに心が疲れていくことがあります。この心の疲れは、専門的には「自我消耗」と呼ばれています。
学術研究では、この自我消耗が思いのほか深刻な問題を引き起こす可能性が指摘されています。自我消耗は、単純な疲労感とは異なります。それは、自分の感情や行動をコントロールする力が徐々に失われていく現象です。
本コラムでは、職場における自我消耗について解説します。どのような状況で自我消耗が起こり、それが私たちの行動にどのような影響を及ぼすのか。また、職場での人間関係や家庭生活にまで波及する可能性があることも見ていきましょう。
思いやり行動の裏側で起こること
誰かを助けることは、素晴らしい行動です。多くの会社では、このような「組織市民行動」と呼ばれる思いやり行動が推奨されています。新入社員の指導を買って出たり、困っている同僚の仕事を手伝ったり、会社の行事に積極的に参加したり。こうした行動は、職場の雰囲気を良くし、組織全体の効率を高めることにつながります。
しかし、こうした思いやり行動には意外な落とし穴があることが分かってきました。誰かを助け、自分の仕事以外の負担を引き受けることで、心が疲れてしまうのです。この心の疲れが、顧客サービスの質の低下につながる可能性があるというのです。
調査では、組織市民行動を多く行う従業員ほど自我消耗が進みやすく、その結果として、顧客に対して不適切な対応をしてしまうことが明らかになっています[1]。疲れ切った心では、笑顔で丁寧な接客を続けることが難しくなります。
組織市民行動による自我消耗は、様々な形でサービス品質に影響を及ぼします。例えば、顧客の要望を無視したり、わざと冷たい態度を取ったり、必要な説明を省略したりするような行動が増えてしまいます。これは、自我消耗によって感情をコントロールする力が低下し、本来なら抑制できるはずの不適切な行動が表出してしまうためです。
一方で、心理的資本が豊かな従業員は、こうした自我消耗の影響を受けにくいことも分かっています。希望、楽観性、自信、回復力といった要素を備えた人は、組織市民行動をとっても心が疲れにくい傾向にあります。ストレスフルな状況に直面しても、「なんとかなる」「乗り越えられる」という前向きな考えを持てるからです。
心理的資本の高い従業員は、仮に自我消耗が起きても、それが不適切なサービス行動につながりにくいという特徴もあります。困難な状況でも楽観的に考えられる人は、顧客対応において感情をうまくコントロールし続けることができるわけです。
組織市民行動は必ずしも組織にとってプラスの結果だけをもたらすわけではありません。従業員の心理的な状態に目を向け、サポート体制を整えることが欠かせません。
不正への誘惑と自我消耗
心が疲れると、私たちは思わぬ行動に走ってしまうことがあります。その一つが不正行為です。しかし、自我消耗と不正行為の関係は一筋縄ではいかないことが分かってきました。
研究では、不正行為を「多くの人が強く非難する行為」と「それほど非難されない行為」に分けて調査が行われました[2]。その結果、自我消耗が進むと、それほど非難されない不正は増える一方で、多くの人が強く非難する不正はむしろ減る傾向にあることが明らかになりました。
実験では、参加者に難しい制約のある文章作成課題を与えることで自我消耗を引き起こし、その後の行動を観察しました。その結果、自我消耗状態の参加者は、周囲があまり問題視しないような軽微な不正には手を出しやすくなる一方で、多くの人が問題視するような重大な不正は避ける傾向が見られました。
この一見矛盾する結果には、納得できる説明があります。自我消耗状態では、行動を抑制する力が弱まるため、「まあ、これくらいなら」という軽い気持ちで小さな不正に手を出しやすくなります。一方で、大きな不正を働くには相応の「覚悟」や「エネルギー」が必要です。疲れ切った状態では、そこまでの行動に出る余力がないのです。
税理士を対象にした調査でも、同様の結果が得られています。税務の繁忙期には睡眠時間が短くなりがちで、それによって自我消耗が進みます。調査の結果、睡眠不足による自我消耗が進むと、比較的軽微な会計操作は増える一方、重大な虚偽報告は減少する傾向が見られました。
詳しい分析によって、自我消耗が不正行為に及ぼす影響は、その行為に対する社会的な合意の程度によって異なることが分かりました。多くの人が「それは悪いことだ」と強く思う行為については、疲れている状態でもブレーキが働きます。一方、「そこまで悪くないかもしれない」と思われがちな行為については、自我消耗によって歯止めが効きにくくなります。
このように、自我消耗は必ずしも全ての不正行為を増加させるわけではありません。むしろ、行為の社会的な重みによって、その影響は正反対になる可能性があるのです。
職場の疲れが家庭にまで及ぼす影響
自我消耗の問題は、職場だけにとどまりません。職場での心の疲れは、そのまま家庭に持ち込まれ、パートナーとの関係にまで影響を及ぼす可能性があることが分かっています。
ある研究では、仕事中に感情をコントロールする必要が多かった従業員は、帰宅後も心の疲れが続き、家庭での生活に支障が出ることが報告されています[3]。職場での自己統制要求が高い日ほど、家庭でも自我消耗が強く表れました。
例えば、仕事中にイライラを抑えたり、注意散漫を防いだりする必要が多かった日は、家に帰っても疲れが抜けにくく、家事や育児に集中できない状態が続きやすくなります。これは、職場で使い果たした自己統制の力が、十分に回復されないまま家庭生活に持ち込まれるためです。
この疲れはパートナーにも伝播します。従業員が疲れ切って帰宅すると、家事や育児の分担が十分にできなくなります。その結果、パートナーの負担が増え、パートナーも疲れを感じるようになります。こうして両者の疲れが重なり合うことで、コミュニケーションが減り、些細なことで口論が増えるという悪循環に陥ります。
職場での自我消耗が強いと、パートナーからの支援も得られにくくなります。疲れ切った従業員の様子を見たパートナーも同様に疲労を感じ、その結果として思いやりのある行動や助言が減少してしまうからです。逆に、対立や口論といったネガティブな相互作用が増える傾向も見られます。
この連鎖を断ち切るには、仕事と家庭の間に心理的な「切り離し」の時間を持つことが有効です。帰宅後、意識的に仕事のことを考えないようにする。趣味の時間を持つ。運動をする。そうした工夫によって、心の疲れを家庭に持ち込まないようにすることができます。
研究では、この「心理的ディタッチメント」が不十分な場合、職場から家庭への疲労の波及がより顕著になることも明らかになっています。仕事のストレスや思考が持続してしまうと、家庭でリフレッシュする機会が失われ、自我消耗からの回復が遅れてしまいます。
職場のストレスと自我消耗の関係
職場には様々なストレスがありますが、全てのストレスが自我消耗につながるわけではありません。研究によれば、ストレスには大きく分けて二つのタイプがあることが分かっています。
一つは「挑戦ストレス」と呼ばれるものです。これは、仕事量が多かったり、締め切りに追われたりするような、一見ストレスフルに見える状況です。しかし、このタイプのストレスは、達成感や成長につながる可能性を秘めています。業務に追われながらも、その過程で新しいスキルを身につけたり、自信を深めたりすることができます。
もう一つは「妨害ストレス」です。これは、職場の対立や無駄な手続き、曖昧な指示など、仕事の達成を妨げるような要因から生まれるストレスです。例えば、上司からの矛盾した指示や、部署間の政治的な駆け引きなどが、このタイプのストレスを生み出します。
これら二つのストレスは、自我消耗に対して正反対の影響を及ぼすことが明らかになっています[4]。挑戦ストレスは、むしろ自我消耗を減少させる傾向にあります。チャレンジングな仕事に取り組むことで自己効力感が高まり、ポジティブな感情が生まれるためです。達成感を味わえることで、心理的なエネルギーが維持されやすくなります。
一方、妨害ストレスは自我消耗を増加させます。無駄な手続きや曖昧な指示に対処するためには、余計な心理的負担やエネルギーが必要となります。職場の対立に巻き込まれることで、感情をコントロールする力が大きく消耗してしまいます。
上司との関係性がこれらの影響を変化させる可能性があります。一般的に、上司との良好な関係は仕事上のストレスを軽減すると考えられています。しかし、妨害ストレスに関しては、上司との関係が良好なほど自我消耗が深刻になるという意外な結果が報告されています。
上司との関係が良好な従業員ほど「期待に応えなければ」「心配をかけたくない」というプレッシャーを感じやすく、そのために心の消耗が進むためだと考えられています。良好な人間関係が、時として予期せぬ負担となることを示す発見です。
妨害ストレスは、発言行動(新しい提案や意見を述べる行動)にも悪影響を及ぼします。研究によれば、妨害ストレスによって自我消耗が進むと、建設的な意見を述べる機会が減少することが分かっています。心理的なエネルギーが低下することで、周囲との対立を避けたい気持ちが強まるためでしょう。
一方、挑戦ストレスは発言行動を促進する傾向にあります。達成感や成長機会を感じられる状況では、アイデアを提案したり、意見を述べたりする意欲が高まるのです。自我消耗が抑えられることで、積極的な行動に必要な心理的エネルギーが維持されるからだと考えられています。
挑戦的な仕事が自我消耗を減らす仕組み
チャレンジングな仕事には、自我消耗を減らす効果があることが分かってきました。一見すると、難しい仕事や責任の重い業務は心を疲れさせそうに思えます。しかし、実際にはその反対の効果をもたらすのです。
中国で行われた調査では、責任の重い仕事や挑戦的な課題に取り組む従業員は、自我消耗が少なくなる傾向が見られました[5]。この理由として、挑戦的な仕事には「自己効力感」や「達成感」を高める効果があることが指摘されています。
難しい課題に挑戦することで、「自分ならできる」という自信が芽生え、それが内発的な動機づけを高めます。課題を一つ一つ乗り越えていく過程で、ポジティブな感情が生まれやすくなります。このように、やりがいのある仕事は心理的なエネルギーを維持し、時には増加させる効果があるのです。
さらに、挑戦的な仕事に取り組む従業員は、職場での発言や提案も活発になることが分かっています。自我消耗が抑えられることで、アイデアを出したり、意見を述べたりするための心理的エネルギーが保たれるためです。
上司との関係が良好かどうかに関わらず、挑戦的な仕事による自我消耗の減少効果は一定して見られます。やりがいのある仕事が持つポジティブな効果が、人間関係の要因を超えて働くことを示唆しています。
このように、職場での課題が必ずしも心の消耗につながるわけではありません。適度な挑戦は心理的なエネルギーを活性化させ、職場での積極的な行動を促進する可能性があるのです。
自我消耗研究からの実践的示唆
職場における自我消耗は、私たちの行動や人間関係に様々な影響を及ぼします。他者を思いやる行動も、長期的には心を疲れさせる可能性があります。その疲れは不正行為や顧客サービスの質の低下、さらには家庭生活の悪化にまでつながりかねません。
しかし、全てのストレスが悪影響をもたらすわけではありません。成長につながるチャレンジは、心の疲れを軽減する可能性があります。また、心理的な資本を高めることで、自我消耗に陥りにくくなることも分かっています。
企業のマネジャーとしては、これらの知見を踏まえた上で、従業員の心の健康に配慮する必要があるでしょう。思いやり行動を推奨するだけでなく、その行動を支える心理的資源の充実にも目を向けることが大切です。不必要な妨害要因を減らし、チャレンジの機会を提供することで、職場全体の活力を高めることができるでしょう。
自我消耗は目に見えにくい問題です。しかし、その影響は個人の行動から組織の生産性、さらには従業員の家庭生活にまで及びます。この問題に対する理解を深め、人材マネジメントの実践に活かしていくことは非常に重要な課題となっているのです。
脚注
[1] Hongbo, L., Waqas, M., Tariq, H., Yahya, F., Marfoh, J., Ali, A., and Ali, S. M. (2021). Cost of serving others: A moderated mediation model of OCB, ego depletion, and service sabotage. Frontiers in Psychology, 12, 595995.
[2] Yam, K. C., Chen, X. P., and Reynolds, S. J. (2014). Ego depletion and its paradoxical effects on ethical decision making. Organizational Behavior and Human Decision Processes, 124(2), 204-214.
[3] Germeys, L., and De Gieter, S. (2018). A diary study on the role of psychological detachment in the spillover of self-control demands to employees’ ego depletion and the crossover to their partner. European Journal of Work and Organizational Psychology, 27(1), 140-152.
[4] Kang, F., Zhang, Y., and Zhang, H. (2022). Hindrance stressors, ego depletion and knowledge sharing. Organization Management Journal, 19(1), 22-33.
[5] Xia, Y., Schyns, B., and Zhang, L. (2020). Why and when job stressors impact voice behaviour: An ego depletion perspective. Journal of Business Research, 109, 200-209.
執筆者
伊達 洋駆 株式会社ビジネスリサーチラボ 代表取締役
神戸大学大学院経営学研究科 博士前期課程修了。修士(経営学)。2009年にLLPビジネスリサーチラボ、2011年に株式会社ビジネスリサーチラボを創業。以降、組織・人事領域を中心に、民間企業を対象にした調査・コンサルティング事業を展開。研究知と実践知の両方を活用した「アカデミックリサーチ」をコンセプトに、組織サーベイや人事データ分析のサービスを提供している。著書に『60分でわかる!心理的安全性 超入門』(技術評論社)や『現場でよくある課題への処方箋 人と組織の行動科学』(すばる舎)、『越境学習入門 組織を強くする「冒険人材」の育て方』(共著;日本能率協会マネジメントセンター)などがある。2022年に「日本の人事部 HRアワード2022」書籍部門 最優秀賞を受賞。東京大学大学院情報学環 特任研究員を兼務。