2025年2月26日
誰が何を知っているか:トランザクティブ・メモリーの可能性
「この件については山田さんに聞いてみましょう」「その分野なら鈴木さんが詳しいはずです」—私たちの職場では、こうした会話が日常的に交わされています。これは、組織の中で自然に築かれている「誰が何を知っているか」という認識の表れと言えます。
近年の組織は、多様な専門性を持つメンバーで構成されることが増えました。そこでは、一人ひとりが全ての知識を持つことは現実的ではありません。むしろ、それぞれの専門分野を活かしながら、必要なときに適切な人から知識を得られる仕組みが求められます。そこで注目されているのが、「トランザクティブ・メモリー」の概念です。
トランザクティブ・メモリーは、組織の中で「誰が何を知っているか」を共有し、その知識を効果的に活用する仕組みを指します。この概念は、当初はカップルや親密な二者関係における記憶の分担として研究されていました。しかし今日では、チームや組織全体のナレッジ・マネジメントを理解する上で重要な視点として捉えられています。
本コラムでは、トランザクティブ・メモリーがどのように形成され、組織にどのような価値をもたらすのかを探ります。個人のキャリア形成への好影響や、組織の競争力向上への貢献について、研究成果を交えながら詳しく見ていきましょう。職場における「知識の共有」と「専門性の活用」について、新たな視点を提供できればと思います。
トランザクティブ・メモリー・システムとは
トランザクティブ・メモリー・システム(TMS)は、組織やチームのメンバーが「誰が何を知っているか」を共有し、その知識を活用する仕組みです。このシステムが機能すると、メンバー同士が互いの専門性を認識し、必要なときに適切な人から情報を引き出すことができます。
メンバー間の知識共有を理解するために、トランザクティブ・メモリー・システムの3つの主要な構成要素を見ていきましょう[1]。第一の要素は「専門性」です。これは、各メンバーが異なる知識や技能を持ち、それらが組織内で分担されている状態を指します。例えば、技術開発部門では、基礎研究に詳しいメンバー、製品設計を得意とするメンバー、品質管理に精通したメンバーなど、それぞれが異なる専門領域を担当しています。
第二の要素は「信頼性」です。メンバーが互いの専門知識を信頼し、その判断や助言に従う度合いを表します。専門性が明確に分かれていても、その知識や判断を信頼できなければ、効果的な協働は難しくなってしまいます。相手の専門性に対する信頼があってこそ、円滑な知識共有が実現するのです。
第三の要素は「調整性」です。必要な情報をスムーズに共有し、円滑に協力して作業を進められる状態を意味します。専門性があり、信頼関係も築けていても、実際の業務の中でうまく連携できなければ、トランザクティブ・メモリー・システムとしては十分に機能しているとは言えません。
これらの要素が組み合わさることで、組織内の知識活用が進められます。例えば、新製品開発のプロジェクトでは、技術面の課題が出てきたときに「この問題は山田さんに相談するのが最適だ」という認識が共有されています。そして、山田さんの専門的な判断は周囲から信頼され、その知見をもとにチーム全体が協調してプロジェクトを進めていくことができます。
このようなシステムは、日々の業務の中で自然と形成されていきます。長期間一緒に働く中で、メンバーは互いの得意分野や専門性を学び、そこに信頼関係が育まれ、効率的な連携の方法も確立されていきます。
個人のキャリア形成に好影響
トランザクティブ・メモリー・システムは、組織全体の効率性を高めるだけでなく、個人のキャリア形成にも望ましい影響をもたらします。特に注目すべきは、個人の自発的な行動を引き出し、変化に対する柔軟性(キャリア・レジリエンス)を高める効果です[2]。
メンバーが互いの専門性を理解し合うチームでは、個人が主体的に行動を起こしやすい環境が生まれます。それは、必要なときに適切なサポートを得られる確信があるからです。
例えば、新しいプロジェクトを提案する際、技術面では開発チームのサポートが得られ、マーケティング面では営業部門の知見を活用できるという見通しを持てます。このように、周囲の専門性を把握していることで、個人は積極的に挑戦できるようになります。
トランザクティブ・メモリー・システムが確立された環境では、各メンバーは自分の専門性を活かしながら、同時に他者から新たな知識やスキルを学ぶ機会も多く得られます。
例えば、プロジェクトで他部門のメンバーと協働する際、お互いの専門知識を交換し合うことで、自分の視野を広げることができます。このような学習の機会が、個人の変化対応力やキャリア・レジリエンスを高めることにつながります。
さらに、自分の知識や成果を周囲に積極的にアピールする人は、このプロセスを加速させることができます。セルフ・プロモーションを上手に行うことで、自分の専門性がチーム内で明確に認識され、それに応じた機会や支援を得やすくなります。結果、更なる成長やキャリア発展の可能性が広がっていくのです。
このように、トランザクティブ・メモリー・システムは個人の主体的な行動を支援し、学習機会を提供することで、キャリア形成に必要な能力の開発を促します。メンバー間の知識共有と相互理解が、個人の成長を支える基盤となっていきます。
普段からトランザクティブ・メモリーを活用
トランザクティブ・メモリー・システムは、日常的な業務の中で形成され、活用されています[3]。このプロセスを理解することは、組織の効率性を高める上で重要です。
日々の仕事を通じて、メンバーは互いの得意分野や専門性を学んでいきます。例えば、「経理処理はAさんの手順が正確」「顧客対応ならBさんの判断が的確」といった認識が、業務経験を通じて共有されていきます。知識の分担が確立されると、問題解決がより効率的になります。
メンバー間の信頼関係も、日常的な協働を通じて築かれていきます。ある人の専門的な判断が何度も正しいと実証されれば、その人への信頼が高まります。互いの仕事ぶりを日々観察することで、「この人の意見は信頼できる」という確信が生まれてきます。
トランザクティブ・メモリー・システムの特徴として、必ずしも詳細なコミュニケーションがなくても機能する点が挙げられます。長年一緒に働いているメンバー同士であれば、「この案件は誰に相談すべきか」がわかるようになります。暗黙の了解や非言語的コミュニケーションだけでも、効率的な業務遂行が可能になるのです。
しかし、組織の変更や新しい課題が生じた際には、トランザクティブ・メモリー・システムの再構築が必要になることもあります。例えば、新しいメンバーが加わったり、従来とは異なる種類の問題に直面したりした場合です。そのような時は、改めて「誰が何を担当するか」「どのように連携するか」を話し合い、新たなトランザクティブ・メモリー・システムを形成していく必要があります。
組織の規模によってもトランザクティブ・メモリー・システムの形態は異なります。小規模なチームでは、メンバー全員が互いの専門性を詳しく把握できますが、大規模な組織では、部門やグループごとに異なるトランザクティブ・メモリー・システムが形成され、それらが重層的に機能することになります。
ダイアド、グループ、チームレベルで研究を整理
トランザクティブ・メモリー・システムの研究は、異なる規模や形態の集団を対象に発展してきました。ダイアド(2人組)から始まり、グループ、さらには組織レベルへと広がっていく中で、それぞれの特徴や課題が明らかになってきています[4]。
最初期のトランザクティブ・メモリー・システム研究は、親密な二者関係、特にカップルや夫婦を対象に行われました。例えば、長年連れ添ったカップルは、家事や育児の分担において「どちらが何を担当するか」を理解し合っています。こうした関係では、対面でのコミュニケーションが豊富にあり、互いへの信頼も厚いため、トランザクティブ・メモリー・システムが形成されやすい環境にあります。
グループレベルでは、複雑な相互作用が観察されます。学習グループや仕事上のプロジェクトチームなどを対象とした研究では、メンバー数が増えるほど情報交換のコストも上がることが指摘されています。一方で、多様な知識源が存在することで、革新的なアイデアが生まれやすくなるという利点も確認されています。
チームレベルの研究では、特にバーチャルチームや地理的に分散したチームにおけるトランザクティブ・メモリー・システムの形成が注目されています。対面コミュニケーションが限られる環境でも、メールやチャットなどのツールを通じて専門性の把握や信頼関係の構築が可能であることが分かってきました。ただし、暗黙知の共有や心理的な距離感の克服には、依然として課題が残されています。
組織の規模によってトランザクティブ・メモリー・システムの性質も変化します。小規模なチームでは、メンバー間の専門性の把握が容易で、トランザクティブ・メモリー・システムも比較的シンプルな形で機能します。対して、大規模な組織では、部門や階層ごとに異なるトランザクティブ・メモリー・システムが形成され、それらが複雑に絡み合う構造となります。
こうした研究の蓄積は、トランザクティブ・メモリー・システムが集団の規模や性質に応じて柔軟に形を変えることを示しています。例えば、小規模チームでは対面コミュニケーションを重視し、大規模組織ではICTツールも活用しながら、それぞれの環境に即したトランザクティブ・メモリー・システムを構築していく必要があるでしょう。
グループの安定性とトランザクティブ・メモリー・システムの関係は注目に値します。メンバーの入れ替わりが少なく、長期的な関係が築かれている場合、トランザクティブ・メモリー・システムはより深く、確実なものとなります。一方で、頻繁なメンバーの変更は、トランザクティブ・メモリー・システムの維持を難しくする要因となりえます。
ルーティン形成に重要な役割を果たす
トランザクティブ・メモリー・システムは、組織の中でルーティンが形成される過程でも重要な機能を果たします。ルーティンとは、組織が繰り返し直面する問題に対処するための定型的な行動パターンを指します。このルーティンの形成と維持に、トランザクティブ・メモリー・システムが関わっているのです[5]。
組織内でトランザクティブ・メモリー・システムが確立されていると、「この業務ではまずAさんが対応し、次にBさんがチェックする」といったように、誰がどの役割を担うかが決まってきます。このような役割分担の明確化は、業務の効率化につながります。各メンバーが自分の専門性を活かせる場面で貢献し、それを他のメンバーが適切にサポートする体制が整うからです。
トランザクティブ・メモリー・システムはルーティンの柔軟性も支えています。メンバーが互いの専門性を理解していれば、通常とは異なる状況が発生しても、「この場合は通常のBさんではなくCさんに依頼するのが良いだろう」といった判断が可能になります。トランザクティブ・メモリー・システムはルーティンを固定化するだけでなく、状況に応じた適応的な変更も可能にするのです。
ただし、メンバーの入れ替わりや長期の不在などが生じると、それまでのルーティンが変化する可能性があります。専門性の高いメンバーが組織を去る場合、その知識をどのように補完するかが課題となります。その場合、トランザクティブ・メモリー・システムの再構築が必要になり、一時的に業務の効率が低下することもあります。
しかし、そうした変化を経ることで、むしろ新たな可能性が開かれることもあります。新しいメンバーが加わることで異なる視点や専門性が導入され、それによってより効果的なルーティンが確立されることもあるのです。このように、トランザクティブ・メモリー・システムはルーティンの形成と変革の両面で重要な役割を果たしています。
ダイナミック・ケイパビリティの基盤になる
トランザクティブ・メモリー・システムは、企業が環境変化に対応し、競争優位を維持するための能力(ダイナミック・ケイパビリティ)の基盤としても機能します[6]。
トランザクティブ・メモリー・システムが機能している組織では、メンバーが互いの専門性を把握しているため、新しい状況にも柔軟に対応できます。例えば市場環境が変化した際、「この分野に強いメンバーを中心に新チームを編成する」といった機動的な対応が可能になります。既存の知識や経験を新しい文脈で活用する際も、誰のスキルをどのように組み合わせれば良いかの判断が容易になります。
トランザクティブ・メモリー・システムは組織の知識創造も促進します。異なる専門性を持つメンバーが協働することで、新しいアイデアや解決策が生まれやすくなるためです。各メンバーが自分の専門知識を持ち寄り、それらを組み合わせることで、革新的な発想が導かれることがあります。
また、トランザクティブ・メモリー・システムは他社が簡単には模倣できない組織の強みとなります。それは長期的な共同作業や信頼関係の上に成り立っているからです。メンバー間の暗黙の了解や非言語的コミュニケーション、組織固有の文化や歴史とも密接に関わっているため、単純に真似することは困難です。
このように、トランザクティブ・メモリー・システムはダイナミック・ケイパビリティの構成要素として機能します。環境変化への適応力を高め、組織の持続的な競争優位の源泉となるのです。知識集約型の産業では、このトランザクティブ・メモリー・システムの価値が一層高まっていると言えるでしょう。
例えば、研究開発部門では、新技術の開発や既存技術の応用において、メンバー間の知識共有と連携が重要になります。トランザクティブ・メモリー・システムが確立されていれば、各研究者の専門性を組み合わせることができ、革新的な成果を生み出せる可能性が高まります。
コンサルティング企業のような専門サービス業では、クライアントの多様なニーズに応えるため、様々な専門家の知見を組み合わせることが必要です。トランザクティブ・メモリー・システムを通じて「どの専門家に相談すべきか」「誰とチームを組むべきか」を即座に判断できれば、質の高いサービスを提供することができます。
トランザクティブ・メモリー・システムの形成には、時間とコストがかかります。メンバー間の信頼関係を築き、互いの専門性を理解し合うには、継続的な相互作用と学習が必要です。しかし、一度確立されたトランザクティブ・メモリー・システムは、組織にとって価値ある資産となります。それは、競合他社が短期間で模倣することが難しい、独自の競争優位の源泉となるのです。
脚注
[1] Lewis, K. (2003). Measuring transactive memory systems in the field: Scale development and validation. Journal of Applied Psychology, 88(4), 587-604.
[2] Liu, Y., Zhou, X., Liao, S., Liao, J., and Guo, Z. (2019). The influence of transactive memory system on individual career resilience: The role of taking charge and self-promotion. International Journal of Environmental Research and Public Health, 16(18), 3390.
[3] Littlepage, G. E., Hollingshead, A. B., Drake, L. R., and Littlepage, A. M. (2008). Transactive memory and performance in work groups: Specificity, communication, ability differences, and work allocation. Group Dynamics: Theory, Research, and Practice, 12(3), 223-241.
[4] Peltokorpi, V. (2008). Transactive memory systems. Review of General Psychology, 12(4), 378-394.
[5] Miller, K. D., Choi, S., and Pentland, B. T. (2014). The role of transactive memory in the formation of organizational routines. Strategic Organization, 12(2), 109-133.
[6] Argote, L., and Ren, Y. (2012). Transactive memory systems: A microfoundation of dynamic capabilities. Journal of Management Studies, 49(8), 1375-1382.
執筆者
伊達 洋駆 株式会社ビジネスリサーチラボ 代表取締役
神戸大学大学院経営学研究科 博士前期課程修了。修士(経営学)。2009年にLLPビジネスリサーチラボ、2011年に株式会社ビジネスリサーチラボを創業。以降、組織・人事領域を中心に、民間企業を対象にした調査・コンサルティング事業を展開。研究知と実践知の両方を活用した「アカデミックリサーチ」をコンセプトに、組織サーベイや人事データ分析のサービスを提供している。著書に『60分でわかる!心理的安全性 超入門』(技術評論社)や『現場でよくある課題への処方箋 人と組織の行動科学』(すばる舎)、『越境学習入門 組織を強くする「冒険人材」の育て方』(共著;日本能率協会マネジメントセンター)などがある。2022年に「日本の人事部 HRアワード2022」書籍部門 最優秀賞を受賞。東京大学大学院情報学環 特任研究員を兼務。