2025年2月5日
心に響く瞬間が会社を強くする:職場体験の質を高めるために
私たちは職場で様々な体験をしています。日々の業務をこなす中で、快適な環境で仕事ができることもあれば、ストレスを感じることもあります。上司や同僚との良好な人間関係に支えられることもあれば、孤独を感じることもあります。このような従業員の体験は、仕事への満足度や組織への愛着に関係しています。
企業は従業員の体験の質を高めることに力を入れ始めています。従業員が良い体験をすることで、仕事への意欲が高まり、組織に対する愛着も強まります。その結果、生産性が向上し、企業のパフォーマンスにも好ましい結果をもたらすのです。
本コラムでは、職場における従業員体験についていくつかのエビデンスをもとに考察します。物理的な環境から文化的な要素まで、様々な側面から従業員体験を捉え、その意義を探っていきます。組織への関与や心理的な幸福感との関係性に着目し、従業員体験が職場にもたらす価値を明らかにしていきます。
物理的、技術的、文化的に分けて検証
職場における従業員体験は、物理的な環境、技術的なサポート、そして文化的な要素という3つの側面から構成されています。これらの要素は、それぞれ異なる方法で従業員の満足度や組織への関与に作用します。
物理的な環境は、オフィスのレイアウトや照明、温度管理など、目に見える要素を指します。韓国の企業534名の従業員を対象とした調査では、快適な作業環境が整備されている職場では、従業員の満足度が高まることが分かりました[1]。
この結果の背景には、物理的な環境が良好であることで、業務に対するストレスが軽減され、集中力や生産性が向上するということがあります。調査では、物理的な環境が職務満足度を介して組織への関与を高めることが確認されました。
技術的なサポートは、業務で使用するツールやシステム、アプリケーション、ユーザーインターフェースの使いやすさを意味します。同じ調査では、意外にも技術的なサポートは、組織への忠誠心に直接的な関係を持たないことが判明しました。
これは技術的なサポートが、業務を円滑に進めるための基盤として必要ではありますが、それだけでは従業員の感情的なつながりを生み出すには不十分だということを意味しています。情報へのアクセスのしやすさや業務効率は向上するものの、それが直接的に組織への愛着や忠誠心を引き出すわけではないのです。
一方、文化的な要素は、組織の価値観や職場の雰囲気、人間関係、公平性、多様性の尊重、成長機会の提供などを含みます。調査結果は、この文化的な要素が最も強く組織への忠誠心に関係することを示しました。
職場で公平に扱われ、多様性が尊重され、成長の機会が提供される環境では、従業員は組織の一員としての誇りを持ち、自発的に組織に貢献しようとする意識が高まります。文化的なサポートや共感的な環境は、従業員の内的な満足感や組織とのつながりを強め、組織に対する貢献意欲を引き出す効果があります。
これらの要素がどのように従業員の心理に作用するかも、調査で明らかになりました。快適な物理的環境と充実した文化的支援は、まず職務満足度と心理的な幸福感を高めます。そして、この満足感や幸福感が組織への忠誠心を強める要因となるのです。
個人の特性によって、これらの要素の受け止め方は異なります。調査では特に「メンタルタフネス(精神的な強さ)」に注目し、その影響を検証しました。その結果、メンタルタフネスが高い従業員は、物理的な環境の質により敏感に反応する傾向が見られました。
快適な環境が用意されると、組織への忠誠心がより強く高まるのです。これは、精神的に強い従業員が物理的な労働環境の質に対してより敏感であり、快適な環境に対する満足度が組織への忠誠心をより高める効果があることを意味しています。
一方で、文化的な要素は、そのような個人差に関係なく、すべての従業員にとって組織への忠誠心を高める要因となりました。職場の雰囲気や人間関係がすべての従業員にとって普遍的に重要であるということです。
オンボーディングの情緒的・社会的体験は重要
新入社員が組織に馴染んでいく過程、すなわちオンボーディングにおける体験も、従業員体験の要素です。研究者たちは、オンボーディングの期間中に新入社員が経験する情緒的・社会的な体験に着目し、調査を行いました[2]。この研究は、組織内で学ぶべき4つのレベルの要素(役割の理解、組織の理解、社会的支援、将来の展望)を区別し、また円環的感情モデルを適用して、新入社員の情緒的な反応を分析しています。
調査では、81名の若年層の専門職(ミレニアル世代)を対象に、オンボーディングプログラムの評価を行いました。量的調査とともに、12名と14名からなる2つのフォーカスグループによる質的調査も実施され、オンボーディングの経験が職務満足度やエンゲージメントにどう関連しているかが調べられました。
調査結果において注目に値するのは、上司や同僚からの社会的な支援が高く評価されていた点です。新入社員は、チームの一員として受け入れられ、必要なサポートを受けられることで、職場への適応がスムーズになります。社会的支援は、新入社員の心理的な安全性を高め、組織への帰属意識を強めることが明らかになりました。
一方で、オンボーディング期間が短いことや、他部署との連携が不十分であることは、否定的な評価につながりました。新入社員は、組織全体を理解し、自分の役割を把握するために十分な時間と情報を必要としています。
調査では、他部署の管理者が新入社員の受け入れに関与しないことや、役割や組織に関する情報が不足していることが、不満要因として挙げられました。これらが不足すると、不安や戸惑いを感じ、職場への適応が遅れる可能性があります。
オンボーディング期間中の体験は、新入社員の感情面にも作用します。「熱意」「幸福感」「支援」といったポジティブな感情が生まれる一方で、「ストレス」「不安」「困惑」「動機の低下」といったバーンアウト的な感情も経験されることが分かりました。これらの感情は、その後の職務満足度や組織への関与に影響を及ぼします。
オンボーディング期間中の体験は、長期的な職場への定着率にも関係します。ポジティブな体験をした新入社員は、組織への愛着が強まり、離職の意思が低くなる傾向が見られました。逆に、ネガティブな体験は、早期離職のリスクを高めることにつながります。
AIの支援によって従業員体験の質が高まる
テクノロジーの進歩は、従業員体験の向上にも新たな可能性をもたらしています。インドのIT企業を対象とした調査では、AI技術を活用したHRシステムが、従業員の体験をどのように向上させているかが明らかになりました[3]。調査では、インタビュー、観察、組織内文書分析などの方法で、社員や管理職、技術者ら23名への質的データ収集が行われ、HRプラットフォームやAIアプリケーションの効果が検証されました。
このIT企業では、独自のHRエコシステムを構築しています。このシステムは6つのテーマと3つの支援要素で構成され、従業員の様々な活動をサポートします。
第一に、AI支援アプリがチーム内の目標達成度や協力関係に関するフィードバックを提供するアプリがあります。このアプリは、従業員のパフォーマンスに応じたフィードバックを即座に提供するため、従業員と管理職の間で頻繁なコミュニケーションが生まれ、期待のズレが少なくなります。
これによって、従業員は自分の仕事がどのように評価されているかを理解でき、パフォーマンスの向上につながります。同時に、同僚や上司とのつながりも強まり、チームの一体感が醸成されます。
第二に、AIチャットボットが個々の従業員のスキルや過去の実績に基づいて、成長の機会を提案しています。特定のスキル向上のためのトレーニングや新しいポジションの推薦が行われ、従業員は自分のキャリアパスを明確に描けるようになります。
企業が従業員の将来を支援する姿勢を示すことで、信頼関係も強化されます。キャリアに対する方向性は、従業員の成長意欲を高め、組織への帰属意識を強める効果があります。
第三に、メンタルヘルスケアを含む健康増進アプリが導入されています。リマインダー機能や健康に関するアドバイス、定期的な運動プログラムが提供され、AIにより従業員の勤務状況に合わせた適切な休息やストレス軽減のための活動が提案されます。
この取り組みにより、従業員は自身の健康状態を意識的に管理できるようになり、ワークライフバランスが改善されます。健康とワークライフバランスの維持は、従業員の仕事へのモチベーションと持続的なパフォーマンスに作用します。
第四に、リアルタイムの評価システムが導入されました。従来の年次評価とは異なり、従業員の努力が即座に認識され、報酬に反映される仕組みにより、モチベーションの維持・向上が図られています。承認され、報酬を受けることで従業員の満足感が向上し、その後の業務意欲も高まります。とりわけ、社会的な評価を受けることは、従業員にとっての「社会的通貨」となり、職場における自己価値を高めます。
第五に、業務以外の才能やスポーツ活動を支援するプラットフォームが整備されています。社内でのイベントや活動を通じて自分の特技を披露する機会が提供され、従業員は多面的な自己実現を果たすことができます。
このような取り組みは、職場生活の充実感を高め、企業への帰属意識を強めることにつながります。従業員が自身の持つ多様な才能を表現できることで、仕事だけにとらわれない自己実現を達成しやすくなります。
第六に、フィードバックを提供できる仕組みが整備されています。従業員は自分の意見や不満を迅速に人事や管理職に伝えることができ、改善につなげるための仕組みが整っています。
フィードバックが可能になることで、従業員のエンパワーメントが促進され、組織への信頼感が高まります。意見が反映されることで、従業員は自分の意見が評価され、改善に役立っていると感じやすくなります。
これらのAI支援システムは、3つの支援要素によって補強されています。まず、AIによるデジタルプラットフォームを通じて従業員体験を個別化し、日常業務の効率化を図ります。次に、職場での快適な物理的環境の整備を進め、従業員の移動や休憩スペースの最適化によりストレス軽減や効率向上を実現します。最後に、組織全体で共有される価値観や文化を支援し、心理的安全性やエンパワーメントを促す文化を構築します。
瞬間的で極めてポジティブな体験に注目
従業員の体験を考える上で、日常的な体験だけでなく、特別に印象に残る瞬間的な体験にも着目する必要があります。21名へのインタビューと26名のMBA学生を対象にしたオープンエンド型の質問調査、さらに424名を対象としたオンライン調査が実施され、「ピーク体験」と呼ばれる非常にポジティブな瞬間が、従業員の行動や態度に影響を及ぼすことが発見されました[4]。
ピーク体験を引き起こす要因は、4つの種類に分類されます。一つは「向上感」です。これは、予想以上の成功を収めたり、特別な報酬を受けたりする体験を指します。実際の経験が予想を上回ると、大きな満足感や高揚感が生じます。従業員がこのような体験をすると、自分が特別な存在であると感じ、強いポジティブな感情が生まれます。
「洞察」は、新しいスキルを学んだり、困難な課題を克服したりする中で、自己成長を実感する瞬間を指します。人間は自己成長や能力の発展を求めるものであり、自分が困難を乗り越えられるという認識が感情的なピークを生むのです。この体験は自己効力感を高め、新たな挑戦への意欲を生み出します。
「誇り」は、リーダーや同僚からの認識や承認、顧客からの感謝などによって生まれます。承認されることは社会的動機の中核であり、自己価値を強化します。自分が職場で価値ある存在だと実感できる瞬間は、高揚感をもたらします。
「つながり」は、チームメンバーとの協力や上司からの温かい配慮によって生まれる、人との絆を感じる瞬間です。人間は社会的存在であり、他者との共感や一体感は心理的安全感をもたらします。チームの一体感が形成されると、集団的なポジティブな感情が拡大するため、感情的ピークが生じます。
これらのピーク体験は、従業員の行動に変化をもたらします。ポジティブな感情は行動の幅を広げ、積極性を高めます。例えば、ピーク体験を経験した従業員は、課題を自ら進んで引き受けたり、新しい解決策を提案したりするようになります。
また、人間には感情的なピーク体験を他者と共有したいという心理的傾向があります。職場における良い体験を他人に話したり、SNSで共有したりする行動が増加するのは、このためです。ポジティブな体験は、組織への愛着や誇りとして表現されやすく、それが組織の評判を高めることにもつながります。
ピーク体験が仕事そのものに関連している場合、その効果はさらに強まります。例えば、難しいプロジェクトを成功させた場合、その達成感は仕事への意欲を高めます。
脚注
[1] Lee, M., and Kim, B. (2023). Effect of employee experience on organizational commitment: Case of South Korea. Behavioral Sciences, 13(7), 521.
[2] Crespo, J. L., Martinez, M., and Carcedo, I. (2023). Employee experience in the process of organizational socialization. University of Barcelona and EAE Business School.
[3] Malik, A., Budhwar, P., Mohan, H., and Srikanth, N. R. (2023). Employee experience? the missing link for engaging employees: Insights from an MNE’s AI-based HR ecosystem. Human Resource Management, 62(1), 97-115.
[4] Fu, X., and Ma, J. (2022). Employees’ peak experience at work: Understanding the triggers and impacts. Frontiers in Psychology, 13, 993448.
執筆者
伊達 洋駆 株式会社ビジネスリサーチラボ 代表取締役
神戸大学大学院経営学研究科 博士前期課程修了。修士(経営学)。2009年にLLPビジネスリサーチラボ、2011年に株式会社ビジネスリサーチラボを創業。以降、組織・人事領域を中心に、民間企業を対象にした調査・コンサルティング事業を展開。研究知と実践知の両方を活用した「アカデミックリサーチ」をコンセプトに、組織サーベイや人事データ分析のサービスを提供している。著書に『60分でわかる!心理的安全性 超入門』(技術評論社)や『現場でよくある課題への処方箋 人と組織の行動科学』(すばる舎)、『越境学習入門 組織を強くする「冒険人材」の育て方』(共著;日本能率協会マネジメントセンター)などがある。2022年に「日本の人事部 HRアワード2022」書籍部門 最優秀賞を受賞。東京大学大学院情報学環 特任研究員を兼務。