2025年1月30日
「従業員体験」で変わる組織マネジメント:その可能性と限界を探る
企業における人材マネジメントの考え方が変化しています。従業員を管理の対象として捉え、企業の生産性や効率性を追求することが中心だったところから、デジタル化やグローバル化が進む中で、従業員一人ひとりの経験や感情に着目する「従業員体験」(Employee Experience)という考え方が注目されています。
従業員体験は、従業員が企業との関わりの中で得る様々な経験を包括的に捉える概念です。入社前のプロセスから、日々の業務環境、キャリア開発の機会、そして退職に至るまでの全てのプロセスにおいて、従業員がどのような経験をし、何を感じているのかに焦点を当てます。企業は従業員の体験を理解し、それを改善することで、組織の活性化や生産性の向上を目指しています。
労働市場が変化する中で、従業員体験の質を高めることは、企業の競争力を維持・向上させるための鍵となってきます。柔軟性、エンゲージメント、職場文化がこれまで以上に注目されており、従業員の期待や働きやすさを理解することが、企業の成長に不可欠です。
組織の柔軟性と競争力の鍵として位置づける
従業員体験は、現代の組織が直面する様々な課題に対応するための要素として位置づけられています[1]。企業を取り巻く環境は変化しており、技術の進歩やグローバル化の進展により、組織には高い柔軟性と適応力が求められています。
研究によると、従業員体験に着目することで、組織は環境変化への対応力を高めることができます。調査対象となった従業員は、環境の急速な変化に適応することで、戦略計画や意思決定が容易になると報告しています。ただし、一部の従業員は不確実性や変化への対応を負担に感じているという結果も出ています。
リモートワークやフレックスタイムの導入は、ワークライフバランスの向上に寄与していることが明らかになっています。柔軟な働き方を選択できることで、従業員は自分のペースで業務に取り組むことができ、生産性の向上にもつながります。
調査では、職場の変化に対して新しいアイデアやアプローチを模索する従業員は、組織に革新をもたらすことが確認されています。開かれた姿勢を持つ従業員は、変化をチャンスと捉え、改善に向けた行動を取る傾向があります。
リーダーが柔軟性を推進することで、従業員のエンゲージメントが向上することも示されました。リーダーが従業員のアイデアやフィードバックを尊重し、変化に向けた方向性を示すと、従業員は自分が組織の成功に貢献していると感じ、モチベーションが向上します。
一方で、過剰なトレーニングや変化の頻度が高すぎると、ストレスや職務満足度の低下を引き起こすことも指摘されています。過剰な負担は「変化疲れ」を引き起こし、組織が変化に適応する際に十分な計画やリソースを提供しない場合、従業員の負担感が増加します。
文化・心理的要素を考慮した包括的な枠組み
従業員体験は、文化的、物理的環境、技術的環境の組み合わせとして捉える必要があります。従業員体験を構成する5つの要素が挙げられています[2]。
1つ目は「意味のある仕事」です。従業員が自身の成長や社会的貢献を実感できる仕事であることが求められます。従業員が自分の仕事を社会的に意義深いと感じることで、モチベーションが高まり、成果が向上します。これは、従業員の心理的ニーズ(有能感、自律性、関係性)を満たすためです。
2つ目は「エンパワリング・カルチャー」です。協力的で包括的な文化が、従業員の満足度を高めます。従業員が心理的に安全で、公平に扱われていると感じることで、チームワークや忠誠心が向上します。特にパンデミック以降、このような包括的な文化の重要性が増しています。
3つ目は「柔軟な人事マネジメント」です。従業員個々のニーズに対応する柔軟な施策が重要です。従業員の幸福度や生産性を向上させ、企業へのロイヤルティを高める効果があります。「大退職時代」において、柔軟な人事マネジメントはリテンションに貢献し得ます。
4つ目は「先進的な技術環境」です。生産性と連携を強化する技術基盤の整備が求められます。デジタル技術の活用により、従業員の業務効率が向上し、満足度も高まります。リモートワークやハイブリッドワークが増える中で、技術環境の整備は従業員体験の質を左右すします。
5つ目は「インクルーシブ・リーダーシップ」です。従業員の意見を取り入れ、心理的安全性を提供するリーダーの存在が大切です。支援的なリーダーシップが従業員の定着率向上につながります。リーダーが従業員一人ひとりに注意を払い、成長を支援することで、従業員は安心して能力を発揮できます。
これらの要素は相互に関連しており、総合的に機能することで従業員体験の質を高めます。文化的、心理的な側面への投資が、組織のパフォーマンス向上に寄与します。
顧客体験を従業員体験に応用する
顧客体験(Customer Experience)の考え方を従業員体験に応用する取り組みが広がっています。デザイン思考を用いて、従業員のニーズや感情を理解し、体験を共に設計することが注目されています[3]。
現代の職場では、従業員満足度が低下しており、離職率の上昇やイノベーションの欠如が問題となっています。この背景には、4世代(伝統主義者、ベビーブーマー、X世代、ミレニアル世代)が同じ職場で共存し、それぞれ異なる期待や価値観を持つことや、組織が効率や利益を優先し、従業員の心理的・社会的ニーズに応えられていないことがあります。
従業員体験の設計に際して6つの原則が提案されています。1つ目は「従業員の深い理解」です。ストーリーを共有する場を作り、ニーズや課題を明確にすることが求められます。個別の対話セッションを通じて従業員の価値観や課題を把握することで、深層的な理解が得られ、真にニーズに応える施策が可能となります。
2つ目は「広範囲で全体的な視点の採用」です。従業員の職務環境を心理的、社会的、経済的、物理的観点から考察することが重要です。職場環境だけでなく、在宅勤務時の心理的ストレスや家庭環境も考慮する必要があります。仕事以外の要因もパフォーマンスに影響を与えるためです。
3つ目は「無形のものを可視化する」です。感情や行動を視覚化することで、従業員の体験を具体的に理解することができます。従業員が「どのように感じ、考え、行動しているか」を共有することで、感情的なデータもチーム全体で共有できます。
4つ目は「徹底した参加型のプロセス」です。従業員が相互にインタビューし、リーダーと共に解決策を共創することが求められます。解決策の設計プロセスに全従業員を参加させ、アイデアを集めることで、ボトムアップによる解決策への納得感と実行力が向上します。
5つ目は「試行錯誤を重ねる」です。解決策を一度に完全な形で実施するのではなく、小規模な実験を繰り返し改善します。新しいプランを限定的に試験導入し、従業員のフィードバックを得ることで、適合性の高い施策に進化させることができます。
6つ目は「プロセスそのものを重視する」です。プロセスを通じて信頼と関与を深め、組織全体のリーダーシップを向上させることが重要です。チームビルディングの一環として、従業員が互いの業務プロセスを体験するワークショップを実施することで、従業員間の信頼感を向上させ、協力意識を促進することができます。
従業員は物理的な環境だけでなく、「自分が評価され、重要視されている」という感情的充足を求めています。組織が「意味」や「目的」を提供しなければ、短期的な効果しか得られないのです。
従業員体験は離職率に影響を与える
従業員体験が離職率に影響を及ぼすことが、インドネシアのコーヒーショップを対象とした調査で明らかになっています[4]。研究では、給与と報酬の不足、リーダーシップの欠如、ワークライフバランスと職場の快適さ、テクノロジーとインフラの不足が、離職率の上昇に関連していることが示されています。
給与と報酬が不十分な場合、従業員は自らの仕事が評価されていないと感じ、他の職場への移動を検討するようになります。多くの従業員が給与や報酬の水準に不満を感じており、それがモチベーション低下と離職意思につながっていることが確認されています。
リーダーシップの質も離職率に影響を及ぼす要因です。リーダーが従業員の意見を尊重せず、成長を支援しない場合、従業員の離職意向が高まることが明らかになっています。公平で支援的なリーダーシップの欠如は、組織への帰属意識を低下させる要因となります。
ワークライフバランスと職場環境の快適さも、離職率に影響を与えます。ワークライフバランスが保てない環境や、同僚や上司との関係が良好でない職場では、従業員のストレスが増加し、離職意思が高まることが示されています。快適さが欠けると、職場に対する愛着を持ちにくくなります。
テクノロジーとインフラの不足も、離職の要因となります。従業員がスキルを向上させるためのテクノロジーやインフラが不足していると、職場の魅力が損なわれ、他の職場での成長機会を求めて転職を考えるようになります。
会社が従業員体験を重視していないと、従業員は職場に対する愛着を持ちにくくなり、短期間で退職する傾向が強まります。採用から退職までの「従業員ジャーニー」(employee journey)が充実していないことが原因です。従業員ジャーニーを充実させることは、従業員が長期的に職場に貢献したいと思う帰属意識を形成する上で重要です。
従業員体験はリテンションにはつながらない
他方で、従業員144名を対象とした調査では、従業員体験プログラムが必ずしも従業員のリテンション(定着)につながらないことが明らかになってもいます。研究では、従業員体験(Employee Experience Journey)、企業文化の内面化(Corporate Culture Internalization)、従業員エンゲージメントプログラムの3つの要因が、離職意向に与える影響を検討しています[5]。
調査結果によると、従業員体験プログラムは離職意向に有意な影響を与えていないことが示されています。これは、従業員が「経験を最大限に活かせていない」と感じる場面が多く、プログラム自体が十分に発展していないことが要因とされています。従業員の期待と実際のプログラム内容との間にギャップが存在し、そのことが従業員の満足度向上につながっていないのかもしれません。
一方で、企業文化の内面化は離職意向に有意な正の影響があることが確認されています。企業文化を理解し、それに基づいて行動する従業員は、企業との結びつきを強め、離職意思が低減します。企業文化の浸透が従業員の定着において重要な役割を果たすことを示す結果です。
従業員エンゲージメントプログラムも、離職意向に有意な正の影響を与えることが明らかになっています。プログラムに参加することで従業員が会社への愛着を感じ、満足度が向上するためです。エンゲージメントプログラムを通じて、従業員は組織の一員としての存在意義を実感し、それが定着率の向上につながっています。
しかし、これら3つの要因の説明力は35%程度で、決して低いものではないのですが、残りの65%程度は他の要因に起因することが示されています。この結果は、従業員の定着には、従業員体験プログラムだけでなく、労働市場の状況や他社の待遇、給与や福利厚生、上司との関係、職場環境の物理的な要素など、より包括的なアプローチが必要であることを示唆しています。
従業員のキャリア目標や家族の事情といった個人的な要因も、定着に影響を与える可能性があります。従業員体験プログラムだけでは対応できない部分であり、組織は従業員の多様なニーズに応える施策を検討する必要があります。
企業に求められることとは
組織のマネジメントにおいて、従業員体験の向上は重要な課題です。しかし、従業員体験プログラムの導入だけでは、必ずしも従業員の定着につながらないことが明らかになっています。
効果的なマネジメントのためには、企業文化の内面化や従業員エンゲージメントプログラムと組み合わせた包括的なアプローチが必要です。従業員の声に耳を傾け、そのニーズや期待を理解し、それらに応える施策を展開することが求められています。
とりわけ、文化的・心理的な側面に注目し、従業員が組織の一員としての意義を感じられる環境を整備することが欠かせません。同時に、テクノロジーやインフラの整備、ワークライフバランスの確保など、物理的な環境の改善も必要です。
従業員体験は、組織の柔軟性と競争力を高める鍵となる要素ですが、それだけでは十分ではありません。企業は、従業員の多様なニーズに応える施策を展開し、持続的な成長を実現する環境づくりを進める必要があります。
脚注
[1] Sivakami, R., Bai, T. S., and Janani, A. (2023). Employee Experience: A Metric for Future Workforce Agility. International Journal for Multidisciplinary Research (IJFMR), 5(5).
[2] Panneerselvam, S., and Balaraman, K. (2022). Employee experience: The new employee value proposition. Strategic HR Review, 21(6), 201?207.
[3] Plaskoff, J. (2017). Employee experience: The new human resource management approach. Strategic HR Review, 16(3), 136-141.
[4] Achmad, M., and Dewi, S. (2023). Do Employee Experience Has an Impact to Turnover? Journal of Career and Entrepreneurship, 2(1), 49-56.
[5] Darmawan, R. A., and Napitupulu, E. (2023). The implementation effect of employee experience journey, corporate culture internalization, and engagement programs on employee turnover intention in WOM Finance Company. Jurnal Komunikasi dan Bisnis, 11(2), 247-261.
執筆者
伊達 洋駆 株式会社ビジネスリサーチラボ 代表取締役
神戸大学大学院経営学研究科 博士前期課程修了。修士(経営学)。2009年にLLPビジネスリサーチラボ、2011年に株式会社ビジネスリサーチラボを創業。以降、組織・人事領域を中心に、民間企業を対象にした調査・コンサルティング事業を展開。研究知と実践知の両方を活用した「アカデミックリサーチ」をコンセプトに、組織サーベイや人事データ分析のサービスを提供している。著書に『60分でわかる!心理的安全性 超入門』(技術評論社)や『現場でよくある課題への処方箋 人と組織の行動科学』(すばる舎)、『越境学習入門 組織を強くする「冒険人材」の育て方』(共著;日本能率協会マネジメントセンター)などがある。2022年に「日本の人事部 HRアワード2022」書籍部門 最優秀賞を受賞。東京大学大学院情報学環 特任研究員を兼務。