2024年12月19日
上司の「良い行い」が職場を歪める:静かに広がるモラルライセンシング
私たちは日々の職場生活において、上司の行動を意識的にも無意識的にも見つめています。上司が部下の発言に耳を傾け、公正な評価を行い、困る同僚に手を差し伸べるような場合、私たちはその上司を道徳的な人格者だと捉えます。このような認識は、職場の人間関係をより良好にするかのように思われます。
しかし、心理学の分野で研究されている「モラルライセンシング」という心理現象は、道徳的な人格者という評価が予期せぬ結末をもたらす可能性を示唆しています。モラルライセンシングとは、過去に行った道徳的な行為によって、その後の非道徳的な行動を自身で許してしまうことを表します。
この心理的な働きは、職場における上司と部下の関係において、多面的な形で現れることが判明してきました。本コラムでは、職場のモラルライセンシングについて、研究成果に基づいて検討していきます。日常的に行われる心理的な評価が組織に影響を及ぼし、職場の道徳観とどのような関係を持つのかを考えます。
モラルライセンシングの静かな作用
モラルライセンシングは、私たちの心の奥深くで密やかに、けれども着実に作用する現象です。この現象の実態を把握するために、研究者たちは91件もの研究から7397人分のデータを収集し、総合的な分析を行いました[1]。
分析の結果、モラルライセンシングの存在は疑う余地なく確認されましたが、その作用は当初の想定ほどには強くありませんでした。研究者たちが用いた効果量の基準であるd値は0.31となり、この数字は小規模から中規模の作用とされています。
実際の場面を例に考えてみましょう。休日に出勤して部下の仕事を手助けした上司が、後日その部下に厳しい言葉をかけた場合を想定します。周囲の人々は、この厳しい言葉を通常より受け入れやすくなります。ただし、この受容度の上昇は穏やかなものであり、極端な変化ではありません。
この研究で明らかになったことは、この心理作用には一定の変動が見られたことです。結果の違いの半数以上が、研究ごとの状況の違いによるものでした。たとえば、同じ上司の良い行いでも、ある部下は評価を大きく変える一方で、別の部下はそれほど評価を変えないといった違いが生じうるのです。
研究データの詳細な分析からは、公表された研究では効果が比較的大きく表れ、未公表の研究では小さく表れるという特徴も見出されました。この違いは、効果が大きい研究の方が発表されやすいという「公表バイアス」の存在を表しています。
モラルライセンシングが控えめな形で表れる背景には、人間の道徳判断の複雑性があります。人は自分や他者の行動を判断する際に、多くの要素を考慮に入れます。過去の良い行いは確かにプラスの評価につながりますが、それだけで後の行動がすべて許容されるわけではありません。むしろ、その効果は様々な要素の中で揺れ動いているのです。
アイデアの所有権に関する特異な判断
職場のモラルライセンシングは、特に業務上のアイデアの帰属に関して独特の形で表れることが明らかになりました。344人の社員を対象とした調査では、上司がアイデアを無断使用した場合の部下の反応を分析しました[2]。その結果は、職場の地位関係と道徳観の繊細な結びつきを浮かび上がらせています。
同じアイデア無断使用であっても、上司による場合と同僚や部下による場合では、周囲の受け止め方に違いが生じることが分かりました。上司による無断使用に対して、部下は比較的受容的な姿勢を見せ、対立を避けながら穏便な形で意見を述べる傾向にありました。
調査では、アイデアを無断使用された経験を持つ社員の方が、そうでない社員と比べて対立を回避する度合いが高いことも分かりました。この結果は一見すると不自然に感じられます。被害を受けた人の方が強く抗議することが予想されますが、実際は逆の結果となったのです。
この現象の基盤には、複数の要因が存在します。第一に、職場の階層構造による心理的な圧力が考えられます。上司は部下の人事評価や昇進に関する決定権を有しているため、部下は対立を避けようとする心理が働きます。
加えて、アイデアの帰属に関する認識が組織の地位関係の中で徐々に変容していく可能性も指摘されています。上司が部下のアイデアを自身のものとして発表する行為が繰り返されると、そのような行為が組織内で通常の出来事として受け止められるようになっていきます。
この状況において、モラルライセンシングの作用が事態を一層複雑にしています。上司が過去に道徳的な行動を取っていた場合、部下はその上司によるアイデアの無断使用を深刻な問題とは捉えにくくなります。過去の善行が、現在の不適切な行為を容認する心理的な根拠として機能します。
この研究は、組織における道徳的な判断の複雑性を表しています。知的財産の保護という観点からすれば、アイデアの無断使用は道徳的な問題を含む行為です。しかし、実際の職場では、この基本的な道徳判断が様々な要因によって修正されているのが実情です。
部下の心理に見られる評価の変化
上司の道徳的な振る舞いは、部下の心理にどのような変化を生み出すのでしょうか。研究者たちによる調査では、上司の過去の善行が、その後の行動に対する評価に作用することが判明しました[3]。
特筆すべきは、上司の道徳的な行動が、その後の不適切な行動に対する部下の受容度を高めるという発見です。ある実験では、上司が部下の個人的な問題に理解を示し、支援的な態度を見せていた場合、その後にその上司が部下に厳しい要求をしても、部下はそれを受け入れやすい姿勢を見せました。
この心理的な働きは、恩義や義理といった表面的な感情を超えた心理メカニズムに根差しています。部下は上司の善行を通じて、その上司を善良な人物として認識します。この認識が心理的な緩衝材となり、後の不適切な行動に対する批判的な見方を和らげます。
研究では、上司の不適切な行動を目にした際、部下が通常感じるはずの不満や怒りの感情を抑制する傾向があることも分かりました。これは、過去の善行によって形作られた好意的なイメージが、感情的な反応を抑える働きを持つことを意味しています。
加えて、部下は上司の不適切な行動を解釈する際に、特徴的な認識の偏りを示すことも見えてきました。過去に善行をとった上司の場合、その後の問題行動を「個人の性格や意図の表れ」としてではなく、「外部の要因による一時的な現象」として捉える傾向が強まります。
例えば、普段は部下思いの上司が急に厳しい叱責を行った場合を考えてみましょう。部下は「上司の人格の問題」とは考えず、「組織からの圧力が強いため」「一時的な精神的負荷による」といった解釈を行いやすくなります。上司の過去の善行が道徳的な信用として蓄積され、後の行動評価に独特の認識の偏りをもたらしている証左といえます。
内面からの善行による強い心理的作用
モラルライセンシングの心理的な作用は、善行の背景にある動機の認識によって異なることが明らかになりました。455人を対象とした分析では、上司の道徳的な行動が内面から発するものと認識される場合と、外部からの要請によるものと認識される場合で、部下の受け止め方に違いが生じることが分かりました[4]。
内面からの動機とは、上司自身の価値判断や信念に基づく自発的な意思を指します。例えば「部下の発展を心から願う気持ち」や「道徳的な判断に基づく行動」などが該当します。一方、外部からの動機とは、会社の方針や社会的な要請など、外的な要因に基づく意思を指します。
分析結果によると、上司の道徳的な行動が内面からの動機に基づくと認識された場合、部下はその後の不適切な行動をより許容的に受け止める傾向が強まりました。これは、内面からの動機による善行が、上司の人格的な善良さを表す根拠として認識されるためです。
例を考えてみましょう。休日に出勤して部下の業務を手伝う上司がいたとします。この行動が「部下への思いやり」という内面からの動機に基づくと認識された場合、部下はその後の厳格な指導や高度な要求をより受容的に捉える傾向が見られるということです。
対照的に、同じ休日出勤であっても、「会社の指示」や「業績評価」といった外部からの動機によると認識された場合は、心理的な作用は弱まります。部下は、このような動機に基づく善行を、上司の人格や価値観の表れとしては捉えないのです。
研究では、内面からの動機による善行が、部下の感情にも作用することが判明しました。内面からの動機による善行を行った上司に対しては、部下は不満や怒りといった否定的な感情を抱きにくくなります。これは、上司の行動を「善意に根差した一時的な逸脱」として解釈することによります。
行動の原因の解釈にも特徴的な違いが見られました。内面からの動機による善行を行った上司の場合、その後の問題行動は「外部の要因」や「一時的な状況」によるものと解釈されやすくなります。すなわち、「本質的には善良な人物だが、状況が厳しかった」という見方が優勢になります。
このような発見は、職場における道徳的な行動の多層性を表しています。上司の善行は、その動機の受け止められ方によって異なる作用をもたらし、職場の人間関係や道徳的な判断に幅広い作用を及ぼします。
モラルライセンシングを意識して判断する
以上の研究から、職場におけるモラルライセンシングの実態が見えてきます。この心理的な働きは、組織の道徳観や人間関係にいくらかの作用をもたらすと言えます。
着目すべきは、上司の過去の善行が、後の行動に対する評価に広範な作用を及ぼしている点です。この作用は、特に善行が内面からの動機に基づくと認識された場合に顕著になります。職場の地位関係がこの心理的な働きを増幅させることも分かりました。上司と部下という階層構造の中では、モラルライセンシングがより強く作用するかもしれません。
職場の健全性という観点から見過ごせないのは、モラルライセンシングが組織の道徳的な判断に偏りをもたらす可能性です。アイデアの無断使用や不適切な言動といった問題が、過去の善行によって軽視されてしまう可能性が存在します。特に組織の階層構造を通じて不適切な行為が容認されていく現象は、職場の道徳的な基盤を揺るがし得ます。
このような状況に対して、私たちはどのような心構えを持つべきでしょうか。大切なのは、個々の行動を独自に評価する視点を持つことです。過去の善行に左右されることなく、それぞれの行動を適切に判断することが必要です。
内面からの動機による善行が強い心理的な作用を持つという知見は、上司の行動を評価する新たな観点を提供しています。善行の背景にある動機を過剰に評価せず、冷静な判断を保つことが求められます。
職場の道徳的な環境を維持するには、このようなモラルライセンシングの働きを認識し、それを意識した判断を行うことが必要です。それは、個人の評価の問題であると同時に、組織全体の健全性に関わる基本的な課題といえるでしょう。
脚注
[1] Blanken, I., Van De Ven, N., and Zeelenberg, M. (2015). A meta-analytic review of moral licensing. Personality and Social Psychology Bulletin, 41(4), 540-558.
[2] Ploeger-Lyons, N. A., and Bisel, R. S. (2023). Confronting idea stealers in the workplace: The unfortunate moral credentialing granted to power-holders. International Journal of Business Communication, 60(4), 1123-1147.
[3] Effron, D. A., and Conway, P. (2015). When virtue leads to villainy: Advances in research on moral self-licensing. Current Opinion in Psychology, 6, 32-35.
[4] Wang, R., and Chan, D. K. S. (2019). Will you forgive your supervisor’s wrongdoings? The moral licensing effect of ethical leader behaviors. Frontiers in Psychology, 10, 484.
執筆者
伊達 洋駆 株式会社ビジネスリサーチラボ 代表取締役
神戸大学大学院経営学研究科 博士前期課程修了。修士(経営学)。2009年にLLPビジネスリサーチラボ、2011年に株式会社ビジネスリサーチラボを創業。以降、組織・人事領域を中心に、民間企業を対象にした調査・コンサルティング事業を展開。研究知と実践知の両方を活用した「アカデミックリサーチ」をコンセプトに、組織サーベイや人事データ分析のサービスを提供している。著書に『60分でわかる!心理的安全性 超入門』(技術評論社)や『現場でよくある課題への処方箋 人と組織の行動科学』(すばる舎)、『越境学習入門 組織を強くする「冒険人材」の育て方』(共著;日本能率協会マネジメントセンター)などがある。2022年に「日本の人事部 HRアワード2022」書籍部門 最優秀賞を受賞。東京大学大学院情報学環 特任研究員を兼務。