2024年11月15日
従業員体験の質を高める:組織と個人の新しい関係性
「従業員体験」という言葉をご存知でしょうか。この度、私は沢渡あまねさん、石山恒貴先生と共著で『EXジャーニー:良い人材を惹きつける従業員体験のつくりかた』(技術評論社)を上梓しました。
従業員体験は、職場環境や福利厚生の問題を超えた、より包括的な概念です。朝、目覚めて職場に向かう時の気持ち、同僚との何気ない会話、仕事での成功や失敗の体験、キャリアの転機における決断、そして退職時の思い。こうした一つひとつの経験が、人々の仕事人生を形作っています。本書は、そんな従業員体験に迫る試みであり、深い洞察と実践的な示唆を提供することを目指しています。
私は本書で、第2部(応募/募集)、第3部(選考)、第4部(採用/入社準備)、第5部(オンボーディング)、第13部(退職後リレーション)の執筆を担当しました。これらのパートでは、人材採用から退職後までの一連のジャーニーを描きながら、組織と個人の関係性における重要な転換点について触れています。
組織と個人の関係性は変化しつつあります。長期雇用や年功序列といった日本型雇用は、経済のグローバル化やテクノロジーの進化、価値観の多様化に伴い、徐々に変容してきています。しかし、一気に転換が成し遂げられたわけではありません。従来型の雇用関係と新しい働き方が混在しながら、組織も個人も試行錯誤を重ねている状況が続いています。このような中で、個人の自律性とキャリア選択の自由を尊重しつつ、組織としての一体感や成長も実現する。そんなバランスが、これまで以上に強く求められています。
本コラムでは、私の担当した、第2・3・4・5・13部それぞれにおける主張の方向性を紹介します。内容や構成を示すのではなく、どのような視点を大事にして執筆したのかを明らかにします。
第2部(応募/募集):出会いの質を高める
採用活動は、組織と個人の価値観や目指す方向性が重なり合う「出会い」を生み出すプロセスです。ところが現実には、採用市場における情報の非対称性が、この出会いの質を低下させています。
企業側は採用市場での競争力を高めるため、給与水準や休暇制度、福利厚生の充実度、将来のキャリアパスや成長機会の豊富さなど、候補者を惹きつける要素を前面に押し出します。しかし、実際の業務における課題や困難、組織が抱える問題点、期待される責任や成果については、十分な情報開示がなされないことが少なくありません。この傾向は、特に売り手市場が続く中で顕著になっています。
対して、候補者も自身の市場価値を高めるため、過去の成功体験や保有スキル、資格などの強みを積極的にアピールします。しかし、自身の課題認識や成長に向けた悩み、価値観や志向性については、選考に不利に働くことを恐れて、率直な開示を避ける傾向にあります。より良い条件を求めて労働市場に参入する人材が増加する中で、さらに複雑化しています。
こうした状況では、入社後に現実とのギャップに直面することになります。企業側が強調していた魅力的な制度や機会が、実際には様々な制約や条件付きであることに気づく。あるいは、表面的なスキルマッチングだけで入社を決めたものの、実際の業務や組織の価値観との不一致に悩むことになる。その結果、モチベーションの低下や期待はずれ感が蓄積し、早期離職につながってしまいます。これは、組織にとっても個人にとっても損失となります。
これらの課題を克服するためには、採用プロセスを、組織と個人が互いの本質を理解し合うための「対話の場」として再構築する必要があります。その実現には、多くの時間と労力が必要かもしれません。
企業側は、魅力的な面だけでなく、現実の課題や困難も含めた等身大の姿を伝える。候補者も、スキルや実績だけでなく、自身の価値観や志向性、成長課題についても率直に語る。真摯な対話を通じてこそ、互いのフィットを確認することができます。そして、このプロセス自体が、相互理解と関係構築の第一歩となります。
第3部(選考):可能性を探求する
選考とは、現時点での能力や経験を確認するだけの場ではありません。その人が組織の中でどのように成長し、どのような価値を生み出していけるかを、多角的な視点から探求する機会です。この認識は、急速に変化する事業環境において、一層重要性を増しています。
今持っているスキルや知識は、その人の可能性を示す一つの指標です。重要なのは、新しい環境で学び続ける意欲、困難に直面した時の対応力、チームの中で他者と協働する姿勢など、将来の成長につながる特性を見極めることです。これらは、従来の選考では十分に評価できないことがあります。
例えば、現実の選考では、バイアスや形式的な基準が、可能性の探究を著しく妨げています。「20代後半ならシステムの運用経験が必須」「大手企業出身者なら部下のマネジメント経験は当然」といった固定観念や、「〇〇業界で5年以上」「△△の資格保持」といった形式的な要件が、多様な可能性の芽を摘んでしまうことがあります。
これらの基準は、確かに選考の効率性を高めますが、その一方で、異なる経験や独自の強みを持つ人材との出会いを阻害してしまいます。とりわけ、技術革新やビジネスモデルの変化が進む現代において、この問題はより深刻でしょう。
第4部(採用/入社準備):不安と期待の狭間で
内定から入社までの期間は、キャリアの転換点です。新しい環境における成長への期待がある一方で、様々な不安も押し寄せます。「自分の経験や能力は本当に通用するのだろうか」「期待されている役割を果たせるだろうか」「新しい人間関係はうまく構築できるだろうか」。これらの不安は、特に経験豊富な中堅層において顕著に表れることが多く、慎重なケアが必要とされています。
現在の職場での業務を継続しながら転職を準備する場合、心理的な揺れは一層大きくなります。周囲への報告のタイミングや引き継ぎの進め方、新しい環境への準備など、様々な課題に直面するためです。この期間は、物理的にも精神的にも負担がかかる時期であり、適切なサポートが不可欠です。
この時期の不安や迷いをそのまま放置すると、入社後の適応プロセスに影を落とします。些細な困難に遭遇しただけでも「やはり転職は間違いだったのではないか」という後悔の念が生まれやすく、新しい環境への適応を困難にしてしまいます。負のスパイラルは、個人のパフォーマンスだけでなく、組織全体の生産性にも影響を及ぼす可能性があります。
逆に、この時期を効果的に活用することで、入社後の適応がスムーズになります。そのためには、この期間を「待機期間」としてではなく、新しい環境での活躍に向けた「準備期間」として位置づける必要があります。例えば、業界や企業についての理解を深める、必要なスキルの習得を始める、新しい職場の人々と関係構築を進めるなど、準備を計画的に進めていきます。
また、現在の職場における経験や人間関係を丁寧に締めくくることも、次のステージに向かうための準備となるでしょう。形式的な引き継ぎや挨拶に留まらず、これまでの経験や関係性を振り返り、次のステップへの学びとして昇華させます。
第5部(オンボーディング):最初の一歩を支える
入社後の最初の数ヶ月は、その後のキャリア形成に影響を与える時期です。業務スキルの基礎を習得し、組織の文化や価値観への理解を深め、同僚との信頼関係を構築していく必要があります。さらに、自身の役割や期待を理解し、成果を出していくことも求められます。
しかし、移行期においてサポートが不足すると、様々な問題が生じます。例えば、業務の進め方や判断基準が不明確なまま放置されることで、「自分は期待されている役割を果たせているのだろうか」という不安が募ります。不安は、経験者採用の場合に大きく表れる傾向があります。
組織の意思決定プロセスや暗黙のルールが理解できず、「この組織で自分は本当にやっていけるのだろうか」という疑念も生まれるでしょう。さらに、周囲との関係構築が進まないことで孤立感を深め、モチベーションの低下につながることもあります。こうした状況は、テレワークやハイブリッドワークが増える中で、深刻な課題となっています。
不安や困難が適切にケアされないまま蓄積されると、それは一時的な適応の問題を超えて、長期的なキャリア形成や組織との関係性に影響を及ぼします。最悪の場合、早期離職という結果になってしまいます。採用コストの増加だけでなく、組織の生産性や文化にも負の影響を与える可能性があります。
第13部(退職後リレーション):新しい絆の創造
退職は、従来型の組織と個人の関係性が終わる時点であると同時に、新しい形での協力関係が始まる瞬間でもあります。いわば、雇用関係の「終わり」であると同時に、パートナーとしての「始まり」なのです。この視点は、組織と個人の関係性が流動的になる現代において、特に重要性を増しています。
退職者は組織にとってユニークな存在です。退職者は組織の内部事情、文化、価値観を理解しています。その一方で、外部での経験を通じて新しい視点や知見も獲得しています。「インサイダーの理解」と「アウトサイダーの視点」を併せ持つ存在は、組織の革新や成長にとって貴重な戦力となり得ます。
例えば、他社での経験を通じて得た新しいビジネス実践や技術動向に関する知見を共有することで、組織の革新を促進できます。外部から見た自社の強みや課題について率直なフィードバックを提供することで、組織の自己認識を深めることができます。さらに、異なる組織での経験を持つ人材同士のネットワークは、新たなビジネス機会の創出にもつながります。
このように考えると、組織と退職者の関係性を維持・発展させることは、双方にとって価値を生み出す可能性を持っています。それはOB・OG会のような親睦の場を超えて、互いの成長と発展に寄与するパートナーシップとなり得るのです。このような関係性の構築は、組織の知識基盤を拡大し、イノベーションの機会を増やすことにもつながります。
全体を通して見えてくるもの
組織と個人の関係性は、これからますます多様化していきます。長期雇用を前提とした関係性から、より柔軟で多様な形態へとゆるやかに移行していく中で、重要なのは互いの強みを活かし、弱みを補完し合える関係性を築くことです。この変化は、雇用形態の多様化を超えて、本質的な価値創造の可能性を秘めています。
当たり前のことですが、完璧な組織も、完璧な個人もいません。組織には改善すべき課題があり、個人にも成長の余地があります。しかし、それは決してネガティブなことではありません。それぞれの不完全さこそが、互いの成長と進化を促す原動力となり得るのです。
お互いの不完全さを認識し、それを補い合いながら共に成長していくことこそが、これからの組織と個人の望ましい関係性だと言えるでしょう。時には意見の相違や摩擦も生じるかもしれません。しかし、それすらも互いの成長のための機会として捉え直すことができます。建設的な関係性の構築は、組織の持続的な発展と個人の自己実現の両立を可能にします。
本書は、新しい組織と個人の関係性を実現するための方法を提示しています。それは、採用前から退職後に至るまでの各プロセスにおいて、いかに質の高い従業員体験を創出し、互いの成長を支援していけるかという問いへの回答でもあります。また、理論的な提言ではなく、実践的な示唆と行動指針を含んでいます。
執筆者
伊達 洋駆 株式会社ビジネスリサーチラボ 代表取締役
神戸大学大学院経営学研究科 博士前期課程修了。修士(経営学)。2009年にLLPビジネスリサーチラボ、2011年に株式会社ビジネスリサーチラボを創業。以降、組織・人事領域を中心に、民間企業を対象にした調査・コンサルティング事業を展開。研究知と実践知の両方を活用した「アカデミックリサーチ」をコンセプトに、組織サーベイや人事データ分析のサービスを提供している。著書に『60分でわかる!心理的安全性 超入門』(技術評論社)や『現場でよくある課題への処方箋 人と組織の行動科学』(すばる舎)、『越境学習入門 組織を強くする「冒険人材」の育て方』(共著;日本能率協会マネジメントセンター)などがある。2022年に「日本の人事部 HRアワード2022」書籍部門 最優秀賞を受賞。東京大学大学院情報学環 特任研究員を兼務。