2024年11月13日
研究室からビジネスへ:博士人材の潜在力を探る
近年、特に海外において、博士号を持つ人材が民間企業に就職することに注目が集まっています。従来、博士課程修了者の多くは、大学や研究機関などの学術界でのキャリアを目指すことが一般的でした。しかし、学術界の職が限られていることから、民間企業でのキャリアを選ぶ博士人材が増えつつあります。
この変化は、博士人材のキャリアの幅を広げるという意味で歓迎されるものです。しかし同時に、博士人材が民間企業に就職する際に直面する課題も指摘されています。例えば、博士課程で習得したスキルと企業が求めるスキルとのミスマッチや、博士人材自身のキャリア意識に関する問題などが挙げられます。
本コラムでは、博士人材の民間就職に関する海外の研究知見を紹介しながら、この問題について多角的に考察します。具体的には、民間就職のタイミング、職業による満足度の違い、博士人材がもたらすイノベーション、博士課程で得られる汎用的スキル、そして企業への適応について取り上げます。
いずれも海外の研究ではありますが、これらの検討を通じて、博士人材の民間就職の現状と課題、そしてその可能性について考えることができます。博士人材の活用は、企業だけでなく社会全体にとっても意義を持つ問題です。本コラムが、博士人材のキャリアに関するテーマについて議論するきっかけとなれば幸いです。
民間に行くなら早期が有効
博士号取得者が民間企業でのキャリアを成功させるためには、そのタイミングが重要です。フランスの博士号取得者を対象にした調査において、博士課程修了後、早期に民間企業に就職することで、安定した職業生活や高い報酬を得やすいことが見えてきました[1]。
特に、研究開発(R&D)分野で早期に職を得た博士号取得者は、他の分野に比べて安定したキャリアパスを歩むことがわかっています。博士課程で身につけた高度な知識や研究スキルが、企業の研究開発活動に貢献できるのでしょう。
一方で、博士号取得後に失業期間や活動停止期間がある場合、安定した職を得ることが難しくなるという結果も出ています。一貫したキャリアパスを重視する企業の採用動向と関連しているのかもしれません。それらの期間は、企業にとってマイナスの要素と見なされるため、採用をためらわせる原因となるのです。
博士課程での研究環境も、その後のキャリアに影響を与えます。例えば、企業との共同研究を通じて博士号を取得した場合、民間企業で安定した職を得やすいことが検証されています。在学中から企業と関わり、ビジネス環境に慣れる機会があるからだと考えられます。
これらの結果は、博士号取得者が民間企業でキャリアを築く上で、早期就職が効果的であることを表しています。特にR&D分野での早期就職や、博士課程在学中の企業との連携が、安定したキャリアにつながる可能性が高いと言えます。
職業によって満足度が異なる
博士号取得者のキャリアは多様化しており、職業選択によって仕事に対する満足度が異なることが研究で示されています。特に、研究集約型と非研究集約型の職業における満足度の違いが注目されています[2]。
カタルーニャの博士号取得者を対象にした調査を通じて、大学や研究所などの研究集約型の職場で働く博士号取得者は、仕事の内容やスキルとの適合性において高い満足度を示していることが明らかになりました。博士課程で培った専門知識や研究スキルが直接活かせる環境で働けると、満足度が高まるということです。
一方で、公共部門や私的部門などの非研究集約型の職場で働く博士号取得者は、賃金には高い満足度を示す一方、仕事の内容やスキルとの適合性に対しては低い満足度を示す傾向がありました。今度は逆に、博士課程で得た高度な専門性を十分に活かせない仕事に従事していると感じているのかもしれません。
バイアスを考慮した分析でも、大学や研究所以外の職業に就いた博士号取得者は、仕事の内容やスキルマッチに相対的に不満を持つことが確認されました。研究職以外のキャリアを選択した博士号取得者が、自分のスキルと仕事内容とのミスマッチを感じている可能性があります。
博士人材の採用で論文や特許が増える
博士号取得者を企業が採用することで、その企業のイノベーション活動が活発化する可能性があります。スペインの企業を対象にした調査の中で、博士号取得者を雇用している企業、特に研究開発(R&D)部門に博士人材を配置している企業において、特許取得数や学術論文発表数が増加する傾向が実証されました[3]。
博士号取得者が持つ高度な専門知識や研究スキルが、企業のイノベーションに寄与する可能性を示す結果です。博士課程で培った問題解決能力や批判的思考力が、新たな技術や製品の開発に役立っているのです。
また、博士号取得者の雇用が企業と公共研究機関の共同研究を促進する効果もあります。博士号取得者は、学術界でのネットワークを持っており、企業と大学や研究機関との橋渡し役となっています。産学連携は、企業に新しい知識や技術をもたらし、イノベーションを加速させる要因となり得ます。
博士課程で得るスキルは幅広く適用可能
博士課程で得られるスキルは、研究職だけでなく、非研究職を含む幅広い分野で活用できることがわかっています。アメリカの科学分野の博士号取得者を対象とした調査では、博士課程で培われた汎用的なスキルが、研究集約型(RI)および非研究集約型(NRI)のキャリアの双方で重要視されていることが確認されました[4]。
特に評価されているスキルには、「専門知識」「情報の収集・解釈能力」「データ分析能力」などがあります。これらのスキルは、研究職だけでなく、ビジネスや政策立案など、さまざまな分野で必要とされるものです。例えば、データ分析能力は、企業の人事部門やマーケティング部門でも重視される能力です。
一方、「チームワーク」や「協働スキル」「キャリアプランニング」などのスキルについては、博士課程での習得が不十分であるというギャップが指摘されています。これらのスキルは、特に非研究職で重要視される傾向にあり、博士課程教育における改善点として注目すべきでしょう。
研究集約型キャリアと非研究集約型キャリアで重視されるスキルが異なる点も興味深いところです。研究集約型キャリアでは「創造性」「キャリアプランニング」「外部との協働」が特に重要視される一方、非研究集約型キャリアでは「プロジェクト管理」「迅速な学習」「時間管理」が重視されています。これは、それぞれの職場環境の違いを反映していると考えられます。
職務満足度に関しては、研究集約型と非研究集約型の間で大きな差がないことも示されています。前述の研究とは異なる結果です。この研究によれば、博士号取得者が研究職以外のキャリアでも十分に活躍し、満足感を得られる可能性が示唆されます。
これらの結果は、博士課程教育に対する含意を提供しています。民間への就職を考慮に入れるとなると、博士課程においては、専門的な研究スキルだけでなく、幅広いキャリアに活用できるスキルの育成を強化する必要があるのかもしれません。例えば、プロジェクトマネジメントやコミュニケーション能力を高めるための学習機会の導入が考えられるでしょう。
同時に、労働市場においても、博士号取得者の高度なスキルを様々な分野で活用できる可能性が示されています。企業や政府機関は、博士人材を採用することで、分析能力や問題解決能力を持つ人材を得ることができます。
ただし、博士号取得者が非研究職に就く際には、適応期間が必要になることがある点に注意が必要でしょう。アカデミックな環境と企業環境では求められるスキルや働き方が異なる場合もあります。適応には双方の理解と努力が求められるはずです。
博士課程で得られるスキルが幅広く適用可能であるという知見は、博士人材の活用に新たな可能性を提供するものです。
ビジネス適応に苦労するが、能力は十分
博士号取得者が民間企業に就職した際、ビジネス環境への適応に苦労することがありますが、彼ら彼女らの能力は十分に評価されていることがわかっています。イギリスのエグゼクティブサーチエージェンシーを対象にした研究では、博士号取得者の価値と、彼ら彼女らが直面する課題に関する知見が得られています[5]。
初めに、博士号取得者はその高度な批判的思考力や問題解決能力を高く評価されています。特に、リーダーシップやチームワークにおいて、博士号取得者は貢献を果たすとされています。博士課程で培われる独立した研究能力や、複雑なプロジェクトを管理する経験が、ビジネス環境でも有効に機能するためです。
しかし、博士号取得者がビジネス環境に適応する際には、いくつかの課題に直面することもあります。例えば、アカデミアでは時間をかけて慎重に考察することが一般的ですが、ビジネスでは迅速な意思決定が求められるため、この違いに対応するのに時間がかかる場合があります。
また、コミュニケーションスタイルの違いも課題となります。アカデミックな環境では厳密な論理展開や詳細な説明が重視されることがありますが、ビジネス環境では簡潔で直接的なコミュニケーションが求められることが多いとも言えます[6]。
これらの課題に対応するため、企業側は、博士号取得者を採用する際に非アカデミックな職場環境への適応能力を重視しています。例えば、コミュニケーションスキルや迅速な意思決定を評価する採用プロセスを設けるケースもあります。
ただし、こうした適応の課題があっても、博士号取得者の価値が認識されている点は注目すべきでしょう。多くの企業は、博士号取得者の持つスキルや知識が、長期的には企業に利益をもたらすと考えています。特に、複雑な問題解決能力や新しい知識を生み出す能力は、イノベーションを推進する上で重要です。
博士号取得者がビジネス環境に適応する際には課題があるものの、彼ら彼女らが持つ能力は十分に評価されています。適切なサポートを提供することで、博士人材の能力を企業のイノベーションや問題解決に活かすことが可能です。
民間における博士人材の可能性
本コラムでは、博士号取得者の民間企業への就職に関して、さまざまな側面からその現状や課題を検討しました。この検討から、博士人材の活用に関するいくつかの示唆が得られました。
- 早期に民間企業に就職することが有効であるという研究結果が示されました。特にR&D分野での早期就職は、安定したキャリアに結びつく可能性が高いとされています。この知見は、博士号取得者が自身のキャリアを戦略的に考える上で重要です。
- 職業によって満足度が異なることがわかりました。研究集約型の職場ではスキルの適合性による満足度が高く、非研究集約型の職場では賃金に対する満足度が高い傾向があります。これらの結果は、博士人材の適切な職務配置の重要性を表しています。
- 博士号取得者を採用することで、企業のイノベーション活動が活発化することも明らかになりました。特許取得数や学術論文発表数の増加がその証拠です。博士人材の戦略的な活用の意義を意味する結果と言えます。
- 博士課程で得られるスキルが多様なキャリアに活かせるという点も示唆されました。博士号取得者は研究職以外の分野でも十分に活躍できる可能性があります。
- 博士号取得者はビジネス環境に適応する際に課題を抱えるものの、彼ら彼女らの能力は十分に評価されていることが見えてきました。良質なサポートがあれば、博士人材は企業にとって価値のある存在となるでしょう。
以上より、博士号取得者の民間企業への就職には可能性があると言えます。ただし、この可能性を引き出すためには、博士課程教育の修正や企業の受け入れ体制の整備、博士号取得者自身のキャリア意識の変革など、多面的なアプローチが求められるでしょう。
博士人材の活用は、個々の企業の競争力強化だけでなく、社会全体のイノベーション推進にもつながる課題です。今後、産学官が連携して博士人材の多様なキャリアパスを支援し、その能力を社会全体で活用する取り組みが必要です。
脚注
[1] Calmand, J. (2018). French PhDs Employed in the Private Sector: The signal effect of chaotic pathways. Higher Education Forum, 15, 63-77.
[2] Di Paolo, A. (2012). (Endogenous) occupational choices and job satisfaction among recent PhD recipients: Evidence from Catalonia. XREAP Working Paper, 2012-21.
[3] Cruz-Castro, L., and Sanz-Menendez, L. (2005). The employment of PhDs in firms: Trajectories, mobility and innovation. Unidad de Politicas Comparadas, Consejo Superior de Investigaciones Cientificas (CSIC). Working Paper 05-07.
[4] Sinche, M., Layton, R. L., Brandt, P. D., O’Connell, A. B., Hall, J. D., Freeman, A. M., Harrell, J. R., Cook, J. G., and Brennwald, P. J. (2017). An evidence-based evaluation of transferrable skills and job satisfaction for science PhDs. PLOS ONE, 12(9), e0185023.
[5] McAlpine, L., and Inouye, K. (2022). What value do PhD graduates offer? An organizational case study. Higher Education Research & Development, 41(5), 1648-1663.
[6] ただし、この種の比較はそれ自体がステレオタイプである可能性もあり、注意が必要です。実際には、民間企業の中にも研究機関の中にも多様性があります。
執筆者
伊達 洋駆 株式会社ビジネスリサーチラボ 代表取締役
神戸大学大学院経営学研究科 博士前期課程修了。修士(経営学)。2009年にLLPビジネスリサーチラボ、2011年に株式会社ビジネスリサーチラボを創業。以降、組織・人事領域を中心に、民間企業を対象にした調査・コンサルティング事業を展開。研究知と実践知の両方を活用した「アカデミックリサーチ」をコンセプトに、組織サーベイや人事データ分析のサービスを提供している。著書に『60分でわかる!心理的安全性 超入門』(技術評論社)や『現場でよくある課題への処方箋 人と組織の行動科学』(すばる舎)、『越境学習入門 組織を強くする「冒険人材」の育て方』(共著;日本能率協会マネジメントセンター)などがある。2022年に「日本の人事部 HRアワード2022」書籍部門 最優秀賞を受賞。東京大学大学院情報学環 特任研究員を兼務。