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コラム

『EXジャーニー』:従業員体験から考える、これからの組織づくり

コラム

この度、技術評論社からEXジャーニー:良い人材を惹きつける従業員体験のつくりかた』を上梓しました。沢渡あまねさん、石山恒貴先生との共著になります。ここでは、本書のコンセプトや構成などを簡単に紹介させていただきます。

私たちの働き方は変化してきています。テレワークの普及、副業・兼業の解禁、ワークライフバランスへの意識の高まりなど、従業員と組織の関係性は様変わりしています。そんな中で、組織が持続的に成長していくために重要なのは、そこで働く人々の体験の質を高めていくことです。

「従業員体験」(Employee ExperienceEX)という言葉を耳にする機会が増えてきました。しかし、EXをどう捉え、どのように向上させていけばよいのか。その道筋は、まだ多くの組織で手探りの状態が続いています。

従業員体験(EX)に関する情報は、これまでさまざまな形で発信されてきました。組織行動論や人的資源管理論の観点からの学術研究、各企業の実践事例を紹介する記事、海外企業の先進的な取り組みを紹介する文献など、多様な知見が蓄積されています。しかし、それらの情報は断片的であり、また必ずしも日本の組織の文脈に即したものではありませんでした。

本書では、これらの知見を体系的に整理しながら、日本企業特有の課題、いわゆる日本型雇用の特徴も考慮に入れて再構築を試みています。規模や業態を問わず、様々な組織で活用できる実践的なガイドブックとしての役割を果たすことを目指しています。理論と実践の両面から、これからの組織づくりのあり方を考えるきっかけになれば幸いです。

EXジャーニーとは何か

EXジャーニーは、個人と組織の関係性を時間軸に沿って包括的に捉える枠組みです。それは「入社から退職まで」の期間を指すのではなく、その個人が組織と何らかの接点を持ち始めた最初の瞬間から、退職後も含めた長期的な関係性までを視野に入れています。

例えば、ある人は学生時代に企業の製品やサービスのユーザーとして最初の接点を持つかもしれません。あるいは、SNSで企業の社会貢献活動を知り、その企業に興味を持つこともあるでしょう。家族や友人が働いている企業について聞くことで、その組織への印象が形成されることもあります。EXジャーニーは私たちが意識する以前から始まっているのです。

採用プロセスにおいては、企業説明会での対応、面接官とのコミュニケーション、選考結果の伝え方など、すべての接点が重要な体験となります。入社後は、職場環境、上司や同僚との関係、仕事の内容と進め方、評価とフィードバック、成長の機会など、日々の体験の積み重ねが個人の充実感や組織への思いを形作っていきます。

さらに、育児や介護との両立、キャリアの転換期、そして退職時の体験まで、人生の様々な局面での組織との関わりが、その人のキャリアストーリーの一部となります。退職後も、元従業員としての関係性は続き、時には再び協力関係を築くこともあります。

このような多様な接点の間の「つながり」を理解することは、組織づくりの核心に関わってきます。従業員の体験は個別の制度や施策だけでは決して改善できないからです。例えば、新しい評価制度を導入しても、日々の業務の中でのフィードバックが形骸化していれば、その効果は限定的です。充実した研修プログラムを提供しても、学んだことを実践する機会や、挑戦を支援する文化がなければ、従業員の成長実感は高まりません。

制度や仕組みの改善だけでなく、それらを運用するマネジャーの理解と実践も重要です。例えば、柔軟な働き方を認める制度があっても、マネジャーが従来型の「長時間労働=熱心」という価値観を持っていれば、制度は機能しません。オープンなコミュニケーションを促進するツールを導入しても、組織の意思決定が依然としてトップダウンであれば、本質的な対話は生まれにくいでしょう。

職場での体験は様々な要素が複雑に絡み合って形成されています。そのため、改善に向けた取り組みも包括的な視点が必要です。ただし、すべての要素を一度に変えようとすることは、組織に混乱をもたらし、かえって従業員の不安や負担を増やすリスクがあります。

むしろ、段階的なアプローチが効果的です。まず、影響力の大きな課題に焦点を当て、小さな成功体験を積み重ねていくことで、組織全体の変革への機運を高めていきます。例えば、日常的なコミュニケーションの改善から始めて、徐々に評価の仕組みや人材育成の方法へと範囲を広げていく。連動性を意識しながらも、現場の受容力を考慮して段階的な改善を進めることで、持続的な変革が可能になります。

EXジャーニーに注目すべき理由

EXジャーニーをもとに組織を改善する必要性が高まっている背景には、働く人々の価値観と、組織との関係性の変化があります。従来、組織が従業員に対して仕事と報酬、そして安定的な雇用を提供し、従業員はその見返りとして帰属意識と貢献を示すという関係性が成立している企業が多かったと言えます。

しかし、この関係性は少しずつ着実に変容してきています。組織は従業員に対して、仕事と報酬だけでなく、成長の機会、自己実現の場、そして人生の充実感をもたらす環境を提供することが求められています。一方、従業員も組織に対して、労働力の提供を超えて、創造性、専門性、そして組織変革の原動力としての役割を果たすことが期待されています。

この新しい関係性の中で、従業員は組織の価値創造の中核を担うパートナーとして位置づけられるでしょう。従業員の知識、経験、ネットワーク、そして創造性は、組織の重要な資源となっています。そのため、従業員の体験の質は、組織の革新力や競争力を左右する要素となっているのです。

質の高い従業員体験がもたらす効果は、個人と組織の両面に及びます。まず個人レベルでは、仕事への意欲と没入度が高まり、自発的な学習や挑戦が促進されます。また、心理的安全性が確保された環境では、新しいアイデアの提案や、失敗を恐れない試行錯誤が可能になります。

組織レベルでは、個人の活力が集合的な創造性となって表れます。従業員同士の活発な対話と協働から、いくたのソリューションが生まれ、顧客価値の向上につながります。組織への信頼と愛着が深まることで、困難な状況でも互いに支え合い、乗り越えていく力が育まれます。

組織の評判という観点でも、従業員体験は重要な役割を果たします。優れた体験を提供する組織は、自然と従業員からのポジティブな口コミが広がり、優秀な人材を惹きつける磁力となります。退職した従業員も組織のファンとして、その価値を外部に伝えていく存在となります。

本書の構成

本書では、従業員体験の重要性を、物語という形式でも描いています。主人公の双葉とゆいという二人の若手社員の視点から、現代の組織が直面する様々な課題とその解決の方向性を示しています。

物語は、実際の企業で起き得る出来事を基に構成されており、読者が自身の経験と重ね合わせながら考えを深められるよう工夫しています。例えば、カジュアル面談での戸惑い、評価制度への疑問、育児との両立の課題など、現代の職場でよく見られる場面を通じて、EXの重要性を実感できるようになっています。

物語の展開に合わせて、理論的な解説や具体的な改善施策も提示しています。これによって、読者は問題の本質を理解すると同時に、自組織での実践に向けたヒントを得ることができます。

1部から第4部では、組織との最初の接点から入社までの重要な局面を扱っています。消費者としての体験が就職活動の動機につながる事例や、SNSを通じた企業文化の理解、インターンシップでの学び、そして採用面接でのコミュニケーションまで、応募前から入社までの一連のプロセスを解説しています。

特に注目しているのは、これらの初期体験が入社後の適応や活躍にも影響を与える点です。例えば、採用プロセスでの透明性の高いコミュニケーションは、入社後の信頼関係の土台となります。内定期間中の丁寧なフォローは、スムーズな職場適応を促進します。オンボーディングの質は、業務習得や人間関係の構築に影響します。

5部から第8部では、日々の業務体験を構成する様々な要素について、改善の方向性を示しています。上司と部下の1on1ミーティングの効果的な進め方、チーム内でのフィードバックの仕組み、評価制度の設計と運用、そして成長機会の提供まで、職場における体験要素を包括的に扱っています。

特に重要なのは、これらの要素が相互に影響し合っているという視点でしょう。例えば、日常的な対話の質は評価面談の効果を左右し、評価結果は学習意欲に影響を与え、その学習成果が次の評価につながるという具合に、各要素は関連しています。また、職場の意思決定プロセスの透明性は、情報共有の質を高め、それが相互支援の文化を醸成していきます。

9部から第13部では、キャリア形成から退職後までの長期的な視点でのEXを扱っています。キャリアの節目での支援体制、計画的なスキル開発機会の提供、ワークライフバランスの実現に向けた制度と運用、そして退職時の体験設計まで、人生の様々な局面での組織との関わり方を示しています。

とりわけ、多様なライフイベントへの対応に注目しています。育児や介護との両立支援はもちろん、副業・兼業の促進、学び直しの支援、そしてリカレント教育の機会提供など、個人のライフスタイルやキャリア観に応じた支援の在り方を提示しています。退職後も含めた長期的な関係性の構築についても、アルムナイネットワークの活用や、出戻り採用の促進などの施策を紹介しています。

各パートの終わりには多様な視点からのコラムを配置しています。組織行動論の知見を紹介するもの、企業の先進事例を考察するもの、そして現場での工夫を紹介するものなど、読者の興味や必要に応じて参照できる補足情報を提供しています。コラムは、時に理論的な深掘りを行い、時に実践的なヒントを示し、また時には従来の常識に問いを投げかける役割を担っています。

気になるところから、あるいは全体を

本書は、読者の関心や課題に応じて、様々な読み方ができるよう設計されています。しかし、EXジャーニーの要素は複雑に絡み合っているため、まずは全体を通読することで、要素間のつながりや影響関係についての理解を深めることをお勧めします。例えば、採用時の体験が退職時の行動に影響を与えたり、日常的なコミュニケーションの質が制度の効果を左右したりするなど、一見無関係に見える要素が実は関連していることが多いのです。

人事の方々には、EXジャーニー全体を俯瞰的に捉える視点を持っていただけると良いかもしれません。第13部では、EX推進体制の構築について解説しています。従来の人事機能に加えて、従業員の声を継続的に集め、データに基づいて分析し、改善につなげていく役割が求められています。各部門のマネジャーと連携しながら、組織全体でEXの向上に取り組む体制づくりも重要です。

EXの取り組みを施策の実施にとどめず、組織変革の推進力として活用していく視点も必要です。従業員の声やデータを基に、既存の制度や慣行を見直し、新しい働き方や組織文化を創造していく。そのためには、人事自体も従来の管理型から支援型へと、そのあり方を進化させていく必要があるでしょう。

本書は協働の産物

本書の執筆には、異なる専門性を持つ三者が関わっています。人材開発やキャリア支援の実務に精通した沢渡あまねさん、組織行動論と人材マネジメントの研究者である石山恒貴先生、そして実務と研究の架け橋を担う私。それぞれの視点とアプローチの違いが、本書の内容をより豊かなものにすべく尽力しました。

沢渡さんは、多くの企業での改革支援の経験から、現場で機能する施策のあり方について実践的な示唆を、石山先生は、理論的な基盤を付与するとともに、国内外の事例をもとに実践に活かす見方を提供しています。そして私は、理論と実践の知見を統合しながら、日本の組織の文脈に即した形で再構築することを試みました。

こうした多様な視点の統合により、理論と実践のバランスが取れた内容を提供できたと考えています。EXという比較的新しい概念について、その意義を理解しつつ、具体的な実践方法までを示すことができればと考えています。

もちろん、EXの向上は、一朝一夕に実現できるものではありません。しかし、小さな改善の積み重ねが、やがて大きな変化につながっていきます。本書が、そのような持続的な改善の一助となれば嬉しいです。組織で働くすべての人々が、より良い体験を通じて成長し、活躍できる環境づくりのために、本書が少しでも貢献できることを願っています。

最後に、本書の執筆にあたって多くの方々からご協力をいただきました。特に、粘り強く編集作業を支えてくださった編集者の傅智之さんには、この場を借りて心より感謝申し上げます。


執筆者

伊達 洋駆 株式会社ビジネスリサーチラボ 代表取締役
神戸大学大学院経営学研究科 博士前期課程修了。修士(経営学)。2009年にLLPビジネスリサーチラボ、2011年に株式会社ビジネスリサーチラボを創業。以降、組織・人事領域を中心に、民間企業を対象にした調査・コンサルティング事業を展開。研究知と実践知の両方を活用した「アカデミックリサーチ」をコンセプトに、組織サーベイや人事データ分析のサービスを提供している。著書に『60分でわかる!心理的安全性 超入門』(技術評論社)や『現場でよくある課題への処方箋 人と組織の行動科学』(すばる舎)、『越境学習入門 組織を強くする「冒険人材」の育て方』(共著;日本能率協会マネジメントセンター)などがある。2022年に「日本の人事部 HRアワード2022」書籍部門 最優秀賞を受賞。東京大学大学院情報学環 特任研究員を兼務。

#伊達洋駆

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