2024年11月11日
博士のキャリアパス多様化:海外の動向をもとに
海外では、博士号を持つ人材が民間企業に就職する例が増えています。これまでは、博士号を取得した人の多くが大学や研究機関で働くのが普通でしたが、その状況が少しずつ変わってきています。
本コラムでは、博士人材の民間就職に関する海外の研究を紹介しながら、なぜこのような変化が起きているのか、そしてそれがどのような意味を持つのかを考えてみたいと思います。
ただし、ここで紹介する研究は海外で行われたものです。そのため、結果をそのまま日本の状況に当てはめることはできません。日本特有の労働市場の仕組みや、大学院での教育方法、さらには企業の文化の違いなどを考える必要があります。日本の状況に合わせて慎重に解釈しなければなりません。
そのことを踏まえた上で、博士人材の民間就職という現象と、その背後にある様々な要因について理解を深めていければと思います。
大学や研究機関以外に進む博士人材が増加
海外では、博士号を持つ人の就職先が変わってきています。博士号を持つ人材の多くが大学や研究機関で働くのが一般的でしたが、近年の調査によると、企業や政府機関、非営利団体などに就職する博士人材が増えています。
具体的には、オーストラリアでの2000年から2007年の博士号取得者の就職先を調べた研究でわかりました[1]。調査によると、約半数の博士号取得者が教育以外の分野に就職していました。これは、これまでの「博士=大学研究者」というイメージとは異なる結果です。
このような変化が起きている背景には、いくつかの理由が考えられます。
まず、知識経済の発展が挙げられます。世界規模における競争や技術の進歩により、企業や政府機関でも高度な専門知識や研究能力を持つ人材が求められるようになりました。博士号を持つ人の専門性や分析力、問題解決能力が、大学や研究機関以外の分野でも評価されるようになったのです。
次に、大学や研究機関での仕事の競争が激しくなっていることがあります。大学や研究機関での仕事の数には限りがあり、博士号を持つ人全員が仕事を見つけることは難しくなっています。そのため、多くの博士人材がそれ以外の仕事を探すようになりました。
さらに、博士号を持つ人の就職先の選択に影響を与える要因として、専門分野による違いもあります。例えば、科学系の博士号を持つ人は政府や研究機関での仕事が多く、人文社会科学系は教育機関での仕事が多い傾向があります。
オーストラリアにおいて興味深いのは、博士号を持つ人の就職率の高さです。調査によると、博士号を持つ人の約90%が卒業後6か月以内に就職しており、失業率が低いことがわかっています。博士号を持つ人が持つ高度な専門性や研究能力が、様々な分野で求められているのでしょう。
大学や研究機関での仕事の見通しが不安
博士課程の大学院生たちは、将来の仕事についてどのように考えているのでしょうか。オランダの5つの大学で行われた調査によると、多くの博士課程の院生が大学や研究機関での仕事の見通しを不安に感じていることがわかりました[2]。
調査は、2008年から2012年にかけて1133名の博士課程を修了した人を対象に行われました。調査項目には、長期的な仕事の見通し、安定した仕事を得られる可能性、仕事の安定性、そして職場の人材マネジメントの方針などが含まれています。
結果としては、多くの博士課程を修了した人が、大学や研究機関での仕事の見通しを「悪い」または「非常に悪い」と評価していました。特に、安定した仕事が少ないことが問題として指摘されました。
このような不安な見方が広がっているのは、例えば、大学や研究機関での仕事の不足が挙げられるでしょう。大学や研究機関では、短期間の契約の仕事が多くを占めており、安定した仕事を得ることが難しくなっています。多くの博士課程を修了した人が、次の仕事を探さなければならないという不安定な状況に直面しているのです。
競争の激しさも大きな理由です。博士号を持つ人の数が増えている一方で、安定した仕事の数は限られています。そのため、仕事を巡る競争が年々激しくなっています。
大学や研究機関と企業での給料の差も影響しています。オランダでは、大学や研究機関では企業に比べて給料が低いことが多く、特に生活費や家族を養う必要がある場合、企業での仕事の方が魅力的に見えることがあります。
しかし、こうした不安な見方にもかかわらず、多くの博士課程の院生が大学や研究機関での仕事を希望し続けています。調査によると、「知的な挑戦」や「自由に研究できる」といった点が、大学や研究機関での仕事を選ぶ強い理由となっていました。
大学や研究機関での仕事は、給料や安定性には欠けるかもしれませんが、自分の研究テーマに専念できる自由や新しい知識を生み出す喜びがあります。これらの点が魅力的なのでしょう。
一方で、企業での研究や研究以外の仕事に対する評価も興味深いものでした。これらの仕事では、より高い給料や安定性が魅力とされており、仕事を選ぶ上で大きな役割を果たしていました。また、社会への貢献や家族のことを考えて、企業での仕事を選ぶ人もいます。
この研究を見る限り、博士課程の院生たちは、大学や研究機関での仕事の魅力と現実的な課題の間で悩んでいると言えます。知的な挑戦や研究の自由を求める一方で、安定した仕事や十分な給料も望んでいる。この相反する願望が、彼らの仕事選びを難しくしています。
博士課程の中で企業への関心が増す
博士課程の院生たちの仕事に対する考え方は、博士課程が進むにつれてどのように変わっていくのでしょうか。アメリカの大学で行われた大規模な調査によると、博士課程の院生たちの企業への関心が、博士課程が進むにつれて高まることがわかりました[3]。
調査は、アメリカ全土の39の大学の4109名の博士課程の院生(生命科学、化学、物理)を対象に2010年に行われました。院生たちは、大学教員(研究中心、教育中心)、政府の研究職、企業の研究職(大企業、新興企業)、その他の仕事(科学ライターや非営利団体での仕事など)について、その魅力度を評価しました。
調査結果は、多くの人々が持っている「博士課程の院生は大学での研究を最も望ましい仕事と考えている」という考えとは異なるものでした。
博士課程の初めの頃は、確かに多くの院生が大学での研究職に高い魅力を感じていました。これは、大学での研究が彼らの研究の延長線上にある仕事として自然に感じられるからです。しかし、博士課程が進むにつれて、その考え方は変化していきました。
具体的には、博士課程が進むにつれて、大学での研究職への魅力度が下がり、代わりに政府や企業での研究職の魅力が相対的に高まっていました。特に化学の院生においては、企業への関心が急速に高まることがわかりました。
一つの理由として、大学での厳しい現実に直面することが挙げられます。博士課程が進むにつれて、院生たちは大学での仕事の少なさや競争の激しさを目の当たりにします。その結果、大学での仕事の魅力が相対的に低下していくのでしょう。
企業での研究職の魅力が認識されるようになることも要因です。企業での研究職は、安定した収入やキャリア開発の可能性、さらには自分の研究成果が社会に役立つ機会を提供します。これらの点が、博士課程が進むにつれて院生たちの関心を引きつけていきます。
調査によると、指導教員は大学での研究職を強く勧める傾向にありました。しかし、これは院生たちの仕事に対する考え方の変化と必ずしも一致していません。指導教員は、大学だけでなく企業も含めた幅広い仕事の選択肢について院生と話し合い、支援していく必要があるでしょう。
同じ年の博士人材が多いと希望の仕事に就きにくい
博士号を持つ人の仕事選びには、様々な要因が影響を与えます。その中でも、同じ年に博士号を取得する人の数、つまり「同期の人数」が仕事先の選択に影響を与えるという研究があります。
スウェーデンのチャルマース工科大学とスイスのローザンヌ連邦工科大学の1999年から2009年までの博士号取得者2345人を対象とした調査によると、同期の人数が多いほど、博士号を持つ人が、理想とする仕事に就ける確率が低くなることがわかりました[4]。
具体的には、同期の人数が多い年に博士号を取得した場合、研究開発(R&D)に力を入れている企業や評価の高い大学といった、多くの博士号を持つ人が望む仕事先に就ける確率が低くなります。代わりに、評価があまり高くない大学や研究開発をあまり重視していない企業、行政の仕事といった選択肢を選ぶ傾向があるのです。
同じ年に多くの博士号を持つ人が誕生すると、限られた理想的な仕事を巡る競争が激しくなります。研究開発を行う企業や評価の高い大学などの人気の高い仕事先には、一定数の仕事しかありません。そのため、同期の人数が多くなればなるほど、これらの仕事に就ける確率は必然的に低くなります。
研究分野によっても状況が異なることもわかりました。例えば、工学系の博士課程修了者は、理学系の修了者に比べて、同期の人数の影響を受けやすい傾向がありました。工学系の分野では企業とのつながりが深く、より技術的な能力を持っているため、研究開発を行う企業に対する期待が高くなるからかもしれません。しかし、同時に競争も激しくなるため、同期の人数の影響を強く受けることになります。
給料の期待が高いと仕事が見つかるのが遅れる
博士号を持つ人が高い給料を期待することで、かえって仕事が見つかるのが遅れます。この現象は、フランスのエンジニアと博士号を持つ人の就職状況を比較した研究で明らかになりました[5]。
フランスの労働市場では、一般的にエンジニアの方が博士号を持つ人よりも早く安定した仕事(期限のない雇用や公務員の仕事)に就く傾向があります。これは一見すると不思議に思えるかもしれません。より高度な教育を受けた博士号を持つ人の方が、就職市場で有利なはずだと考えるのが自然だからです。ところが、現実はそう単純ではありません。
研究によると、博士号を持つ人は自身の高い専門性にふさわしい給料を求める傾向があります。長年の研究生活を経て獲得した専門知識や研究能力に対する自信が、高い給料の要求につながるのかもしれません。しかし、企業側から見れば、博士号を持つ人の能力に対して求められるコストが高すぎると判断されることがあります。特に、すぐに戦力となる人材を求める企業にとっては、相対的に低コストのエンジニアが魅力的に映ることがあります。
また、博士号を持つ人の多くは、当初は公的機関や大学での研究職を目指します。これらの仕事は、一般的に安定性が高く、研究の自由度も高いため、多くの博士号を持つ人にとって理想的な仕事と考えられています。しかし、これらの仕事は数が限られており、競争が激しいのが現状です。そのため、公的機関や大学での仕事を得られなかった場合、民間企業への就職を検討し始めるのですが、その時点で既に時間が経過しているため、仕事が見つかるのが遅れる結果となります。
博士号を持つ人とエンジニアでは、就職活動の方法が異なることも影響しています。エンジニアは一般的に、幅広い産業分野に応募します。これに対し、博士号を持つ人は自身の専門分野に近い仕事を探し、結果として応募できる仕事の範囲が限定されがちです。
このような状況に対して、フランス政府は「若手博士号取得者プログラム」(DJD)という給料補助制度を導入しました。この制度は、民間企業が博士号を持つ人を雇用する際のコストを軽減し、博士人材の企業での採用を促進することを目的としています。
実際、この制度の導入後、博士号を持つ人の雇用率は少し改善しました。特に工学系の分野では、その効果が顕著に現れています。しかし、それでもなお、エンジニアの方が早く安定した仕事に就く傾向は続いています。
脚注
[1] Neumann, R., and Tan, K. K. (2011). From PhD to initial employment: The doctorate in a knowledge economy. Studies in Higher Education, 36(5), 601-614.
[2] Waaijer, C. J. F. (2017). Perceived career prospects and their influence on the sector of employment of recent PhD graduates. Science and Public Policy, 44(1), 1-12.
[3] Sauermann, H., and Roach, M. (2012). Science PhD career preferences: Levels, changes, and advisor encouragement. PLoS ONE, 7(5), e36307.
[4] Conti, A., and Visentin, F. (2015). A revealed preference analysis of PhD students’ choices over employment outcomes. Research Policy, 44(10), 1931-1947.
[5] Margolis, D. N., & Miotti, E. L. (2021). Why do French engineers find stable jobs faster than PhDs? Revue Economique, 72(4), 555-589.
執筆者
伊達 洋駆 株式会社ビジネスリサーチラボ 代表取締役
神戸大学大学院経営学研究科 博士前期課程修了。修士(経営学)。2009年にLLPビジネスリサーチラボ、2011年に株式会社ビジネスリサーチラボを創業。以降、組織・人事領域を中心に、民間企業を対象にした調査・コンサルティング事業を展開。研究知と実践知の両方を活用した「アカデミックリサーチ」をコンセプトに、組織サーベイや人事データ分析のサービスを提供している。著書に『60分でわかる!心理的安全性 超入門』(技術評論社)や『現場でよくある課題への処方箋 人と組織の行動科学』(すばる舎)、『越境学習入門 組織を強くする「冒険人材」の育て方』(共著;日本能率協会マネジメントセンター)などがある。2022年に「日本の人事部 HRアワード2022」書籍部門 最優秀賞を受賞。東京大学大学院情報学環 特任研究員を兼務。