2024年8月5日
メタバースと労働環境の変化:現状と展望
メタバースとは、インターネット上に作られた3D仮想空間で、例えば、ユーザーはデジタルの分身であるアバターを使って様々な活動ができます。技術の進歩によって、メタバースはゲームの枠を超えて、ビジネスなどの分野における利用が期待されています。
特に、新型コロナウイルス感染症の流行でテレワークが普及したことで、メタバースは新しい働き方の可能性を示しました。バーチャルオフィスでの会議やコラボレーション、トレーニングなど、物理的な制約を超えることが可能です。
しかし、このような新しい環境は、従来の働き方に変化をもたらします。メタバース上での労働者の保護、仮想空間特有の問題、プライバシーの懸念など、多くの課題があります。
本コラムでは、メタバースが労働環境に与える影響と課題について検討します。いくつかの研究を基に、メタバースの可能性と限界、そして、この技術が働き方をどう変えるかを探ります。
人材育成にメタバースは使えるか
メタバースの登場により、人材育成の分野にも新たな可能性が開かれつつあります。メタバースが人材育成に与える影響について、興味深い知見が報告されています[1]。
まず、メタバースとは何でしょうか。メタバースは大きく4つのタイプに分類されます。
- 1つ目は拡張現実(AR)で、現実世界にデジタル情報を重ね合わせる技術です。
- 2つ目はライフロギングで、日常生活をデジタルデバイスで記録する行為を指します。
- 3つ目は仮想現実(VR)で、コンピュータが作り出した3D環境に没入する技術です。
- 4つ目はミラーワールドで、現実世界をデジタル空間に再現したものです。
これらのメタバース技術は、HRDの主要領域である教育訓練、組織開発、キャリア開発に影響を与える可能性があります。
教育訓練の領域では、VRを活用した様々な事例が報告されています。例えば、ビジネス分野では航空機のメンテナンス作業のシミュレーションや顧客対応のトレーニング、教育分野では化学実験や語学学習、医療分野では手術のシミュレーションやリハビリテーションなどに利用されています。
組織開発の領域では、VRを使ったバーチャル会議が注目されています。従来のビデオ会議よりも臨場感があり、参加者同士のインタラクションが活発になると言われています。また、リモートワークでもバーチャルオフィス空間を使うことで孤立感を減らし、チームの結束力を高める効果が期待されています。
キャリア開発の領域では、VRを使って様々な職業体験ができるようになっています。特に、STEM(科学・技術・工学・数学)分野のキャリア開発に効果を発揮しています。また、バーチャルな就職フェアも開催され、求職者と企業のマッチングの機会が増えています。
一方で、メタバースをHRDに導入する際には、いくつかの課題も指摘されています。まず、費用対効果の分析が重要です。メタバース技術の導入には多くの費用と時間がかかるため、その効果を慎重に見極める必要があります。
個人情報の保護やサイバー攻撃への対策など、リスク管理も求められます。さらに、既存のHRDシステムとの統合や、デジタルデバイドの解消など、技術的・社会的な課題にも取り組む必要があります。
メタバースのHRD分野への応用は、まだ始まったばかりです。しかし、その可能性は大きいと言えるでしょう。従来の対面式トレーニングでは難しかったリアルな体験や繰り返しの実践が可能になります。地理的な制約を超えて、世界中の人々とつながり、学び合うこともできます。
メタバースは教育効果を高める
メタバースの人材育成への応用可能性を踏まえ、ここではより具体的に教育分野での効果に焦点を当てます。メタバース技術(VRとARを含む)が学生のエンゲージメントと学業成績に及ぼす影響、そして学習動機がその関係にどう関わるかについて、学術的な調査結果を見ていきます[2]。
教育への応用において、メタバースは学生に動的かつインタラクティブな学習環境を提供し、興味を引きつけ、エンゲージメントを促進する可能性があります。特に、従来の教育方法では視覚化が難しかった概念や状況を、シミュレーションを通じて学ぶことができます。
例えば、歴史の授業で古代ローマの街並みをバーチャルリアリティで体験したり、物理の授業で複雑な実験を仮想空間で行ったりすることができます。学生は抽象的な概念をより具体的に理解し、学習内容に対する興味を深めることができます。
メタバースは学習モチベーションの向上にも寄与します。仮想空間でのプロジェクト協力やオンライン・ディベート、専門家との対話などの学習機会を提供することができます。学生同士や学生と教師の間の相互作用が向上し、学習がより有意義なものになります。
研究では、メタバース技術を利用した学習環境での学生のエンゲージメントや学業成績を測定する実験が行われました。VR/ARを用いた仮想学習環境を提供し、その後の学生の学習動機、エンゲージメント、学業成績を評価しています。
研究結果は、メタバース技術の教育効果について、いくつかの重要な点を明らかにしています。
まず、メタバース技術は学生のエンゲージメントを向上させることが分かりました。仮想空間での学習は、従来の教室での学習よりも学生の興味を引き、積極的に学習に参加させる効果がありました。メタバース環境の没入感やインタラクティブ性が、学生の注意を引きつけ、集中力を高めるためだと考えられます。
次に、メタバース技術は学習動機を高める効果があることが示されました。仮想環境での学習体験は、学生の好奇心を刺激し、学ぶことへの意欲を高めます。例えば、仮想空間での実験や探索活動は、学生に主体的な学びの機会を提供し、内発的動機づけを促進する可能性があります。
さらに、研究結果は学習動機とエンゲージメントの間に関連があることを表しています。学習動機が高い学生ほど、より高いエンゲージメントを示します。メタバース技術は、学習動機を高めることで、間接的にエンゲージメントを向上させる効果があると言えます。
高いエンゲージメントは学業成績の向上に寄与することも明らかになりました。学習に積極的に関与する学生ほど、学習内容をより深く理解し、良い成績を収めます。メタバース技術は、エンゲージメントを高めることで、最終的に学業成績の向上にも貢献します。
形式知から暗黙知への変換は難しい
教育効果の向上が期待されるメタバースですが、知識の伝達にはまだ課題があります。特に、労働環境における暗黙知の伝達は重要な問題です。メタバースを用いたリモートワークプレースでの暗黙知の伝達プロセスとその実践の可能性について、最近の調査結果を紹介します[3]。
暗黙知とは、個人の経験や直感に基づく知識で、文章やマニュアルでは伝えられないものを指します。例えば、熟練した職人の技や、経験豊富なマネージャーの判断力などが暗黙知に当たります。暗黙知の伝達は、組織のナレッジマネジメントにとって重要です。
研究では、メタバースを使用した暗黙知の伝達が、シニアおよびジュニア社員にどのように受け入れられるか、また、メタバースを介した知識伝達プロセス中の没入感と相互作用の役割を探ることを狙っています。
研究結果は、メタバースの暗黙知伝達における可能性と課題を明らかにしています。
まず、シニア社員の視点からは、メタバースの利用が暗黙知の伝達を促進する可能性が示唆されました。シニア社員は、メタバースが学習者との対立を減らし、学習環境をより自由でカジュアルにすると認識しています。例えば、仮想空間では、現実世界での上下関係や緊張感が緩和され、より自由なコミュニケーションが可能になるという見方があります。
一方、ジュニア社員の視点からは、メタバースが交渉に関する不安を軽減する効果がある一方で、実際の状況との違いも認識されていました。仮想空間での練習は、失敗を恐れずにスキルを磨くことができる利点がありますが、同時に現実世界との差異も感じられるようです。
メタバースの使用は、知識移転プロセスにおいて、暗黙知を形式知に変換することを促進する効果があることも分かりました。交渉スキルの教育において、メタバースは知識を明示的に共有することを容易にします。例えば、交渉の様子を3D空間で再現し、具体的な動作や表情を視覚的に示すことができます。
しかし、形式知を暗黙知に変換することについては課題が残されています。メタバースは実践を通じて学び、明示的な知識を受け取る機会を提供しますが、その知識を完全に自分のものとし、暗黙知として内面化することは依然として難しいようです。
研究ではまた、メタバースにおける没入感と相互作用が、従業員の暗黙知獲得を促進する可能性も示唆されています。メタバースの環境、状況、アバターがより現実的であるほど、参加者はこの仮想環境により関与し、学習効果が高まります。
テレプレゼンス感(遠隔地にいながら、その場にいるかのような感覚)の重要性も指摘されています。リアルな状況を理解し、適切に対応するためには、高いテレプレゼンス感が必要です。
労働者の権利や保護にどう関係するか
メタバースが労働環境に与える影響は、知識伝達の問題だけにとどまりません。労働者の権利や保護の問題も重要な課題です。ここでは、メタバースにおける労働者の差別という問題に焦点を当て、学術界での議論を紹介します[4]。
新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、テレワークが急速に普及し、バーチャルリアリティ(VR)を活用した作業環境の導入が進みました。しかし、このような新しい労働環境は、従来の労働関連法制に課題を突きつけています。
研究によれば、メタバースは差別、憎悪表現、嫌がらせ、人権保護に関する法的問題を提起しています。
- メタバースでの労働において、身体的な障害を持つ人々が不利益を被らないようにする必要があります。例えば、視覚や聴覚に障害のある人々がメタバース環境を十分に利用できるようにするための技術的・制度的対応が求められます。
- 現実世界と同様に、メタバース内でもジェンダーに基づく差別が生じる可能性があります。例えば、特定の性別のアバターが特定の役割や職務から排除される状況を防ぐ必要があります。
- メタバース環境に馴染みやすい若年層と、そうでない高齢層との間で、不公平な扱いが生じるかもしれません。年齢にかかわらず、全ての労働者が機会を得られるようにする必要があります。
- メタバース内でも、現実世界と同様にハラスメントが発生する可能性があります。むしろ、匿名性が高まることで、より悪質な嫌がらせが行われることが懸念されます。
問題に対処するためには、メタバース内での行動をモニタリングする必要が生じますが、そのことは新たな問題を引き起こします。労働者のプライバシーや個人データの安全性を脅かすのです。
例えば、メタバース内での労働者の行動を常時監視することで、ハラスメントを防止し、加害者を特定することができるかもしれません。しかし、そのような監視は労働者のプライバシーを侵害し、個人データの不適切な収集や使用につながりかねません。監視システムのセキュリティが不十分な場合、労働者の個人情報が漏洩するリスクもあります。
メタバースにおける労働者の権利保護に関しては、仮想世界のクリエイターや運営者が重要な役割を果たします。多くのメタバース・プラットフォームでは、独自の行動規範や利用規約が設定されており、差別的な行為やハラスメントの禁止、違反者に対する制裁措置などが定められています。
しかし、メタバースは国境を越えて利用されるため、どの国の法律が適用されるのかなどの問題が生じ得ます。ある国では合法とされる労働慣行が、他の国では違法とみなされる可能性があります。メタバース・プラットフォームの運営者が他国に拠点を置いている場合、法的措置を取ることが困難になる事態もあります。
メタバースにおける労働者の権利保護のためには、国際的な協調が不可欠です。各国の労働法制度の違いを踏まえつつ、メタバース特有の労働問題に対応できる国際的な法的枠組みの構築が求められています。
一方で、メタバースは新しい労働の可能性も生み出しています。例えば、バーチャルワークスペースは、医療分野でのトレーニングや、従業員のトレーニングやジョブトライアルを促進します。VRを用いた手術シミュレーションは、医療従事者のスキル向上に貢献し、企業は仮想空間で新入社員の研修を効果的に行うことができます。
しかし、これらの新しい可能性も新たな課題を生み出します。仮想空間でのトレーニングや研修の時間を労働時間としてどのように扱うか、その間の事故や健康被害にどう対処するか、といった課題です。
メタバースでの労働が増えることで、労働時間管理の問題も浮上します。仮想空間では物理的な制約が少ないため、労働時間が不明確になりやすく、過重労働や長時間労働の問題が発生するかもしれません。
さらに、メタバースでの労働における健康と安全の問題も重要です。長時間のVR使用による眼精疲労や、不適切な姿勢による筋骨格系の問題など、従来とは異なる健康リスクが存在します。仮想空間でのストレスやメンタルヘルスの問題にも注意を払う必要があります。
労働法制にも影響を与え得る
最後に、これまで見てきたメタバースの労働環境への影響を踏まえ、より広い視点から労働法制への影響を考察します。急速に進化するテクノロジーと法制度の間の緊張関係を明らかにし、メタバースという新しい労働環境がどのように労働法に影響を与えるかを探究した研究があります[5]。
研究によれば、メタバースにおける労働に関しては、いくつかの重要な法的な論点が浮上しています。
- メタバースで働く労働者の地位や報酬、労働条件についての法的な整理が必要です。例えば、アバターを通じて仮想空間で仕事をする場合、その労働者はフリーランスとして扱われるのか、社員として扱われるのかを明確にする必要があります。
- 労働者の監督や労働法の適用について、国や地域によって異なる規則が適用される可能性があり、これをどう調整するかが課題となります。例えば、ある国では労働者の監視が厳しく規制されている場合、メタバース内での監視方法も同様に規制されるべきかが問題となります。
- 労働者の個人データの収集とその保護についても問題が生じ得ます。メタバースにおける労働では、労働者の個人データ(例えば、アバターの動きや発言、作業内容など)が収集されることがありますが、これらのデータがどのように保護され、どのような目的で使用されるかを明確にする枠組みが必要です。
仮想現実の中で長時間働くことが、現実世界と異なる感覚や環境に適応する必要があるため、精神的および身体的な負担がかかることを示唆する研究もあります。メタバースにおける労働時間をどのように定義し管理するか、仮想空間での労働に起因する健康問題(VR酔いやデジタル疲労など)をどのように労働災害として扱うか、仮想空間でのハラスメントをどのように定義し対処するかなどの問題もあるでしょう。
さらに、メタバースでの労働は、労働市場の構造を変える可能性があります。地理的な制約がなくなることで、グローバルな人材の流動性が高まり、新たな形態の雇用関係(例えば、グローバルなギグワーカー)が生まれるかもしれません。
研究者は、これらの課題に対処するために、技術の進歩に合わせて労働法制を柔軟に変化させていく必要があることを指摘しています。例えば、メタバース特有の労働環境に対応した新しい労働基準の策定や、国際的な協調の下での法的枠組みの構築などが求められます。
脚注
[1] Lim, D. H., Lee, J. Y., and Park, S. (2023). The metaverse in the workplace: Possibilities and implications for human resource development. Human Resource Development Review, 21(4), 15344843231217174.
[2] Al Yakin, A., and Seraj, P. M. I. (2023). Impact of metaverse technology on student engagement and academic performance: the mediating role of learning motivation. International Journal of Computations, Information and Manufacturing, 3(1), 10-18.
[3] Lau, K. W. (2022). Rethinking the knowledge transfer process through the use of metaverse: A qualitative study of organizational learning approach for remote workplace. PRESENCE: Virtual and Augmented Reality, 31(3), 229-244.
[4] Rosioru, F. (2023). Workers’ non-discrimination in the metaverse. SHS Web of Conferences, 177, 01001.
[5] Caragnano, R. (2023). Labour law: New workplaces in the metaverse and opportunities for cultural and heritage professions. Athens Journal of Law, 9(2), 211-228.
執筆者
伊達 洋駆 株式会社ビジネスリサーチラボ 代表取締役
神戸大学大学院経営学研究科 博士前期課程修了。修士(経営学)。2009年にLLPビジネスリサーチラボ、2011年に株式会社ビジネスリサーチラボを創業。以降、組織・人事領域を中心に、民間企業を対象にした調査・コンサルティング事業を展開。研究知と実践知の両方を活用した「アカデミックリサーチ」をコンセプトに、組織サーベイや人事データ分析のサービスを提供している。著書に『60分でわかる!心理的安全性 超入門』(技術評論社)や『現場でよくある課題への処方箋 人と組織の行動科学』(すばる舎)、『越境学習入門 組織を強くする「冒険人材」の育て方』(共著;日本能率協会マネジメントセンター)などがある。2022年に「日本の人事部 HRアワード2022」書籍部門 最優秀賞を受賞。東京大学大学院情報学環 特任研究員を兼務。