ビジネスリサーチラボ

open
読み込み中

コラム

欲求階層説は正しいのか:実証研究から見える課題

コラム

人の行動の原動力は何でしょうか。お金や地位へのこだわりでしょうか。それとも、自分の可能性の実現でしょうか。こうした動機づけの源泉について、長年議論が重ねられています。

その中でも広く知られているのは、マズローによる「欲求階層説」でしょう。マズローは人の欲求を5つに分類し、下位の欲求が満たされると上位の欲求が生じるという階層性を主張しました。

欲求階層説は一見、人の行動をうまく説明しているように思えます。しかし、この理論には様々な批判が存在します。

本コラムでは、欲求階層説への批判を紐解いていきます。それらの検討を通じて、人事領域の皆さんに示唆を提供したいと思います。

欲求階層説とは

欲求階層説は人の動機づけを5つの階層に分類した理論であり、マズローによって1943年に提唱されました。具体的には、人の欲求は、生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求、尊重の欲求、自己実現の欲求という5つに分けられます。

  • 生理的欲求:食欲や睡眠欲など、生存に直接関わる欲求です。生命の維持に必要であり、満たされない状態が長く続けば、危険です。
  • 安全の欲求:住居の確保、雇用の安定、健康の維持など、身体的・心理的な危険や脅威から離れる欲求です。安心して生活を送れる環境を求めます。
  • 社会的欲求:他者との関係性に関する欲求です。愛情や所属感、友情など、人間関係の形成や維持に関わる欲求が含まれます。他者との絆を求め、孤立や疎外感からの解放を志向します。
  • 尊重の欲求:他者からの承認に関する欲求です。自分に対する肯定的な評価や、他者から認められたいという欲求が含まれます。有能感、達成感、名声などを求めます。
  • 自己実現の欲求:自分の能力を最大限に発揮し、理想の自分になろうとする欲求です。創造性、自発性、問題解決、自己成長などを求めます。

マズローは、これらの欲求が下位のものから上位のものへと階層を成しており、下位の欲求が満たされると、次の上位の欲求が現れると考えました。より低次の欲求が満たされることが、より高次の欲求の出現条件になっているという考え方です。

欲求階層説は、人の動機づけを複数の次元、それも階層からなるものとして捉えた点に特徴があります。また、自己実現という概念を重視した点も独特です。マズローは、歴史上の偉人などの研究から自己実現の特性を導き出し、自発性、創造性、他者への共感など、より高次な動機づけを体現する人の姿を模索しました。

欲求階層説は、シンプルで分かりやすい枠組みとして、人事領域において今でもよく引き合いに出されています。例えば、研修の資料やメディアの記事など、様々な場面で目にする機会があるのではないでしょうか。

欲求階層説はどんな影響を与えたか

欲求階層説は人事領域にも理論的基盤の一つとして取り入れられ、活かされてきました。1960年代から1980年代にかけて、欲求階層説が米国企業のマネジメントにどのように影響を与えたかを詳細に考察する研究があります[1]

当時の米国企業は、欲求階層説を従業員のモチベーション向上に活用しようとしました。例えば、テキサス・インスツルメンツ社は職務内容を労働者の動機づけを高めるように再設計しました。単純作業を減らし、労働者により多くの権限を与え、チームワークを重視するなどの変更が行われたのです。

また、広告代理店のヤング&ルビカム社は、欲求階層説を管理職研修に導入し、部下の心理的成長を促すマネジメントを推進しました。同社は欲求階層説を消費者行動の理解にも応用し、消費者の購買動機を説明しようと試みました。

このように、マズローの理論は人事領域で実践的な指針として取り入れられていったのですが、背景にあったものの一つは公民権運動だと言われます。1960年代は公民権運動が盛んになり、個人の自由や自己実現が重視される時代でした。

欲求階層説は、物質的に豊かになった人々に高次の欲求を志向する価値観を提供し、それがうまくフィットしたと言えます。ただし、公民権運動の柱でもある人種差別などの社会問題には、あまり目を向けていなかったと指摘されています。社会的弱者の視点が抜け落ちていたということです。

欲求階層説に対して批判が存在する

さて、欲求階層説は現代でもその影響力を保っていますが、その一方で、様々な批判にさらされてきました。欲求階層説に対する様々な批判点を丹念に整理し、過去の研究知見を踏まえて理論の妥当性を多角的に検討した論文が提出されています[2]

例えば、欲求の階層性に関する実証的証拠が不足している点が挙げられます。マズローは、下位の欲求が満たされると上位の欲求が生じると主張しましたが、それを支持する明確な証拠は十分であるとは言えません。

具体的には、ある欲求が満たされていないほどその欲求が強くなるという仮説を裏付ける一貫した証拠は得られていません。また、下位の欲求が満たされると、より上位の欲求が活性化されるという仮説についても、決定的な支持は見られません。

また、欲求階層説が文化的多様性を考慮に入れていない点も指摘されています。マズローの理論は、個人主義的で西洋的な価値観を反映しています。自己実現の概念も、すべての文化に普遍的なものとは言えません。自己実現が、一部の優秀な人を念頭に置いている点にも疑問が投げかけられています。

世界各国の調査データを分析したところ、生理的欲求と安全の欲求は共通して重要であったものの、それ以外の欲求の重要度には国や地域による違いが見られたという結果もあります[3]。個人を取り巻く環境を十分に考慮に入れず、欲求階層を想定することには無理があったのでしょう。

上位になると下がるわけではない

欲求階層説では、下位の欲求が満たされると、上位の欲求の重要性が高まると考えられています。生理的欲求や安全の欲求が充足されれば、社会的欲求や尊重の欲求、自己実現の欲求へと関心がシフトしていくというわけです。しかし、この階層性の想定に関しては、実証的に疑問が呈されています。

例えば、産業セールスの現場でマズロー理論を検証した研究は、欲求階層説に反する結果を提示しています[4]。研究では、欲求階層が上がるほど、従業員の満足度が減少するという仮説を立てました。下位の欲求ほど満足度が高く、上位の欲求ほど満足度が低くなるはずだと予測したのです。

仮説を検証するため、14の産業企業で働く266人の営業担当者を対象に、質問票調査が実施されました。分析の結果、5割を超える人が、満足度低下パターンに合致しませんでした。半数以上の営業担当者において、欲求階層が上位になっても満足度は下がりませんでした。

さらに、統計的な検定を用いて、満足度低下パターンに合致する人の割合が理論的予測を超えるかどうかを分析したところ、統計的に有意な差は見られませんでした。欲求階層説から予測される満足度低下パターンは、データからは支持されませんでした。

これらの結果から、欲求階層に沿って一律に動機づけられるのではない実態が見えてきます。金銭的報酬よりも、仕事の内容や達成感、承認などを重視する人もいれば、逆に安全の欲求の充足を優先する人もいるかもしれません。

もちろん、この研究にも一定の限界はあり、サンプルが工業系企業の営業担当者のみに限定されていること、動機づけに影響を与え得る変数が十分に統制されていないことなどは、一般化可能性を制約する要因になります。

とはいえ、この研究は欲求階層説の想定に重要な疑問を投げかけるものです。下位の欲求充足が上位の欲求を活性化させるという階層的メカニズムは、少なくとも単純な形では当てはまらないことが示唆されたのです。

キャリア発達段階説の方が有望か

ここまで見てきたように、マズローの欲求階層説には様々な批判が提起されており、理論の妥当性に疑問が呈されています。対して、欲求の変化をキャリア発達段階という観点から捉え直すことを提案した研究があります[5]

研究では、アメリカの大手通信企業の管理職49名を5年間にわたって追跡調査し、静的分析、変化分析、成功分析の3つの方法を用いて、欲求の階層性を検証しました。

静的分析とは、ある時点での欲求間の関係性を検討すること、変化分析は、欲求の経時的変化を追跡するもの、成功分析では、被験者を昇進の度合いに応じて「成功群」と「非成功群」に分類し、2群の欲求の差異を比較します。

結果的に、いずれの方法でも欲求の階層性は支持されませんでした。下位の欲求充足度と上位の欲求強度の間に有意な正の相関は見られず、時間経過に伴う変化も階層性を支持するものではなかったのです。ある欲求が満たされたからといって、より上位の欲求の重要性が高まるわけではないことが分かりました。

一方で興味深いのは、昇進に伴って欲求の重要度が変化するという結果が得られた点です。具体的には、キャリアの初期段階では安全の欲求が重視され、キャリア中期には尊重の欲求や自己実現の欲求が重視されるようになりました。

研究者は、こうした変化が欲求の階層性によるものではなく、キャリア発達に伴うものではないかと考察しています。キャリア初期には、組織内で自分の立場を確立することが重要な課題です。そのため、職務の安定性や予測可能性を求める、安全の欲求が前面に出てきます。

一方、キャリア中期になると、昇進や達成を通じて自尊心を満たすことが重要になります。地位の向上とともに、自律性や挑戦的な仕事を求める傾向が強まり、自己実現の欲求も高まっていきます。

欲求の変化をキャリア発達段階に対応づけることで、新たな理論的視座を提示したのは評価すべきでしょう。ただし、ここで留意すべきは、キャリア発達段階説と言えるものもまた、一つの仮説に過ぎないということです。

欲求階層説への批判を整理する

マズローの欲求階層説は、人の動機づけを5つの階層的な欲求で説明します。下位の欲求が満たされると上位の欲求が生じるという階層性を仮定しており、人の行動を理解する上で影響力を持ってきました。

しかし、同時に、いくつかの問題点も指摘されています。マズローの欲求階層説には、以下のような理論的・実証的な課題が残されています。

  • マズローは理論を提唱するにあたって厳密な実証研究を行っていません。後の研究でも理論を強く支持する結果は得られていないという批判があります。
  • マズローは下位の欲求が満たされると上位の欲求が生じると主張しましたが、この階層性そのものに疑問を呈する研究がありました。欲求満足度は欲求階層に沿った減少のパターンを示さないという結果も提出されています。
  • 欲求の変化は、低次欲求の充足ではなく、キャリア段階の移行に伴う環境要因や個人の発達段階によるものという考察もあります。キャリアの節目で直面する課題や役割の変化が、欲求のあり方に影響を与えている可能性が示唆されています。
  • マズローの理論では、欲求の階層が普遍的だと仮定していますが、個人の価値観や文化的背景によって欲求の優先順位は異なります。例えば、集団主義的な文化では、社会的欲求が優先されるかもしれません。また、同じ文化でも、個人の性格や経験によって、欲求のあり方は異なるでしょう。
  • マズローは自己実現を人間の高次の欲求として重視しましたが、その定義はあいまいで、一部のエリートを指す概念だという批判もあります。また、自己実現の概念そのものが、個人主義的で西洋的な価値観を反映しているとの見方もあります。

欲求階層説とその批判が語りかけるもの

欲求階層説に対する批判は、人事領域にどのような含意をもたらすのでしょうか。最後に、特に実践的な含意を検討しておきましょう。

  • 欲求の多様性に配慮する:欲求階層説は、欲求の階層が普遍的だと仮定していますが、実際には個人の価値観や文化的背景によって欲求の優先順位は異なります。人事としては、従業員一人ひとりの個性や価値観を理解し、尊重することが重要でしょう。画一的なモチベーション施策ではなく、個別のニーズに合わせた柔軟なアプローチが求められます。
  • 動機づけの多面的な理解に努める:欲求階層説は、人の動機づけを欲求の観点から説明する一つのアプローチですが、実際の動機づけはより複雑で多面的です。人事としては、欲求階層説以外の動機づけ理論も学び、様々な観点から従業員のモチベーションを理解するよう努めることが大切です。
  • データに基づいた判断を行う:マズローの理論には実証的な裏付けが乏しいという問題がありました。人事施策の立案にあたっては、理論的仮説に頼るだけでなく、自社の従業員を対象とした調査など、実証的なエビデンスも重視すべきです。データに基づいて仮説を検証し、PDCAサイクルを回していくことが、有効な施策の立案につながるはずです。
  • 自己実現の多様性を認める:欲求階層説では自己実現が上位の欲求として位置づけられていますが、その定義はあいまいで画一的だという批判があります。人事として、従業員の自己実現が多様な形を取り得ることを認識しましょう。画一的なキャリアパスを押し付けるのではなく、一人ひとりの価値観や強みを生かせる多様なパスを用意し、それぞれの自己実現を支援する姿勢が求められます。

脚注

[1] Lussier, K. (2019). Of Maslow, motives, and managers: The hierarchy of needs in American business, 1960-1985. Journal of the History of the Behavioral Sciences, 55(4), 319-341.

[2] Fallatah, R. H. M., Syed, J., Fallatah, R. H. M., and Syed, J. (2018). A critical review of Maslow’s hierarchy of needs. Employee motivation in Saudi Arabia: An investigation into the higher education sector, 19-59.

[3] Tay, L., and Diener, E. (2011). Needs and subjective well-being around the world. Journal of Personality and Social Psychology, 101(2), 354-365.

[4] Berl, R. L., Williamson, N. C., and Powell, T. (1984). Industrial salesforce motivation: A critique and test of Maslow’s hierarchy of need. Journal of Personal Selling & Sales Management, 4(1), 32-39.

[5] Hall, D. T., and Nougaim, K. E. (1968). An examination of Maslow’s need hierarchy in an organizational setting. Organizational behavior and human performance, 3(1), 12-35.


執筆者

伊達 洋駆 株式会社ビジネスリサーチラボ 代表取締役
神戸大学大学院経営学研究科 博士前期課程修了。修士(経営学)。2009年にLLPビジネスリサーチラボ、2011年に株式会社ビジネスリサーチラボを創業。以降、組織・人事領域を中心に、民間企業を対象にした調査・コンサルティング事業を展開。研究知と実践知の両方を活用した「アカデミックリサーチ」をコンセプトに、組織サーベイや人事データ分析のサービスを提供している。著書に『60分でわかる!心理的安全性 超入門』(技術評論社)や『現場でよくある課題への処方箋 人と組織の行動科学』(すばる舎)、『越境学習入門 組織を強くする「冒険人材」の育て方』(共著;日本能率協会マネジメントセンター)などがある。2022年に「日本の人事部 HRアワード2022」書籍部門 最優秀賞を受賞。

#伊達洋駆

アーカイブ

社内研修(統計分析・組織サーベイ等)
の相談も受け付けています